6日、長崎の平和公園で韓国人原爆犠牲者の慰霊碑の除幕式が行われた。取材を終えると、私は急いで旅客ターミナルに向かった。長崎から西に約4.5キロ離れた軍艦島に行くためだった。ユネスコの「警告」が発せられた後、軍艦島が少しは変わったか確認してみたかったのだ。あまり期待はしていなかったが、もしかして、という思いがあった。
国際機関のユネスコは7月、世界文化遺産への登録時に勧告した後続措置を日本が履行していないとして、強い遺憾の意を表明した決定文を採択した。2015年7月に「明治日本の産業革命遺産」として登録された23カ所のうち、7カ所で朝鮮人強制労働があったにもかかわらず、日本はこうした歴史をきちんと伝えていないということだ。代表的な場所が「軍艦島」と呼ばれた島、端島だ。太平洋戦争期に強制動員された朝鮮人が、端島炭鉱で過酷な労働に苦しみ、命を落とした。
日本で新型コロナウイルスの感染者が大きく減少した影響なのか、軍艦島に向かう2階構造の船は観光客でいっぱいだった。夫婦、恋人、子連れの家族など、みな楽しそうでうきうきした表情だ。軍艦島の旅行商品は非常に商業的だった。船は座席の位置によってプレミアム、優先、通常に分けられ、サービスも異なっていた。島に着くまでの40分間、専門ガイドは軍艦島の歴史、建物の特徴、当時暮らしていた人々の状況などを詳しく説明した。島に上陸すれば約30~40分間、ガイドの案内でごく一部の建物のみを遠くから見ることができる。制約は多かったものの、人々は100年を超える軍艦島の建物が珍しいのか、それらを写真に収めるのに忙しかった。誰かにとっては限りなく悲劇的なこの場所が、別の誰かにとっては楽しい名所であり金儲けの種だという事実が馴染めなかった。
船に乗って島を見て回った約2時間で、「韓国」という言葉が出てきたのはたった一度。日本人ガイドは軍艦島に降りて建物を説明しながら、「ここで日本人と一緒に韓国人、中国人も働いていた」と語った。それが全てだった。その日、船に乗った人々に配られた軍艦島のパンフレットには「強制動員」、「差別」という言葉はおろか「朝鮮人」、「韓国人」という単語すらなかった。予想はしていたものの、心は複雑だった。
過去の事実を語らないからといって、なかったことになるわけではない。遠くに行かずとも、長崎市内にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」に行くだけも、軍艦島の実情を察することができる。この資料館は、良心的な日本人たちが実践的平和運動家としての生涯を生きた岡正治牧師(1918~1994)の志を称えるため、1995年に作った場所だ。岡牧師は、誰も関心を示さなかった朝鮮人原爆被害者の実態を把握し、世に知らしめた人物でもある。2階の展示館には長崎に強制動員された朝鮮人・中国人被害者と原爆犠牲者の名がぎっしりと記されていた。15歳で軍艦島の炭鉱に連れて行かれ、後に三菱造船所に移され、被爆までした故ソ・ジョンウさんの話も展示館の一面を埋めている。
日本軍「慰安婦」問題の解決に取り組んでいる東京外国語大学の金富子(キム・プジャ)教授は、8月の本紙とのインタビューで次のように述べている。「確固たる謝罪や事実認定などによって被害者の尊厳が回復されれば、過去の被害は変えられなくても人権が尊重される未来は作ることができる」。 私たちが歴史的真実と向き合わなければならないのは、より良い未来のためだということだ。
日本政府は来年12月1日までに報告書を提出しなければならない。ユネスコは日本に忠実な履行を求めている。日本にはそれほど多くの時間が与えられているわけではない。
キム・ソヨン|東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )