「停船せよ。従わなければ発砲する」
1968年1月23日昼12時27分、元山(ウォンサン)沖の遠海を航行していた米国海軍の情報収集艦「プエブロ号」に、朝鮮人民軍の小型快速軍艦の駆潜艇(SO-1)と魚雷艇(P-4)などが接近した。
「ここは公海だ」。プエブロ号のロイド・ブッチャー艦長はそう返信した後、可能な限り速いスピードで問題の海域から脱出しようとした。
問題はスピードだった。プエブロ号の最高速度は13ノットだったが、北朝鮮の駆潜艇は29ノット、魚雷艇は50ノットだった。脱出できないと判断したブッチャー艦長は、北朝鮮海軍に従い、元山港に向かった。機密文書を廃棄しようとプエブロ号が停止すると駆潜艇から銃弾が飛んできて、船員1人が即死した。午後2時32分、北朝鮮の要員がプエブロ号に入った。米国海軍の情報収集艦が北朝鮮海軍に拿捕されたのだ。
米国海軍の艦艇の拿捕は、1815年にプレジデント号がニューヨーク海岸で英国軍に拿捕されて以来のことだった。153年ぶりだった。その2日前、北朝鮮の武装工作員たちが朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を殺害しようと大統領府に向かい、彰義門(チャンイムン)の山道で射殺された驚くべき事件が起きたばかりだった(31人の武装工作員のうち29人は射殺され、キム・シンジョは自首、1人は北朝鮮に戻った)。
多くの人々が朝鮮半島で15年ぶりに再び戦争が勃発するのではないかと考え、戦々恐々とした。統一部長官を務めたキム・ヨンチョルは、「1968年は朝鮮戦争後に戦争に最も近づいた年」だったと、著書『70年の対話』に記した。
1968年に戦争は起きなかった。米国のリンドン・ジョンソン大統領はもちろん、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)、ソ連のレオニード・ブレジネフ、中国の毛沢東など、軍の統帥権を持つ者のうち誰も戦争を起こす考えはなかったからだ。
拿捕事件の直後、米国では軍事対応を求める世論がわき上がった。アイゼンハワー、ニクソン、レーガンらは軍事対応を叫んだ。しかし、ジョンソンは、1月24~25日の2日にわたる高官級会議の後、「平和的手段を通じた迅速な解決」の方針を決めた。「すべての手段を利用」するとは述べたが、そのすべての手段には「戦争」は入っていなかった。何よりジョンソンには、米国がベトナムのジャングルでさまよっている渦中に、再び別の戦争に引きずり込まれる考えは全くなかった。
北朝鮮が戦争を準備していたり計画しているという状況でもなかった。米国中央情報局(CIA)は「食糧や医薬品の輸入もなく、貿易規模もそのまま」であり、「北朝鮮が戦争を準備しているという証拠はない」と評価した。機密解除された米国文書によると、当時のロバート・マクナマラ国防長官の後任に決まっていたクラーク・クリフォードはこのように述べた。「83人の乗組員には申し訳ないことだが、朝鮮戦争を再び起こすほどの価値があるとは思えない」
米国は硬軟両面の策を講じた。日本を離れベトナムに向かっていた空母エンタープライズを朝鮮半島に回し、北朝鮮に対する武力示威に出た。ジョンソンは事件3日目の1月25日、ソ連のコスイギン首相に朝鮮半島で軍事的緊張が高まることは望まないと伝えた。
当時米国はソ連を“共犯”と見なした。マクナマラは事件直後の会議で「ソ連は事前に知っていた」と断定した。憶測だった。むしろソ連は、拿捕事件が全面戦争に広がらないよう努めた。ソ連のブレジネフ共産党書記長はその年の4月、「朝鮮の友人たちは、ソ朝条約(ソ朝友好協力相互援助条約)の存在を利用し、ソ連をこの事態に巻き込み、我々が知るよしもない自分たちの下心を我々が支持するよう望んでいる」と立腹した。ソ連はジュネーブ協定第23条に従い、軍艦は領海侵犯時には拿捕ではなく領海外への追放が原則だと述べ、「拿捕は過剰な措置」だという批判的な見解を北朝鮮に伝えた。
北朝鮮はなぜプエブロ号を拿捕したのだろうか。多くの仮説があるが、“事実”と確認されたものはまだない。拿捕は綿密に企画されたものではないが、突発的な状況でもないという程度のことは明らかだ。
プエブロ号は事件12日前の1月11日午前6時、日本の佐世保港を出てソ連沿海州まで北上し、1月15日に清津(チョンジン)港の近くまで南下した。米国議会の調査報告書によると、プエブロ号の任務には「北朝鮮近辺で公然と活動し、ソ連海軍に対する活発な監視活動を行う情報収集艦に、北朝鮮とソ連がそれぞれどう反応するのかを確認する」ということが含まれていた。そのため、プエブロ号の航跡は挑発的であり、これが北朝鮮を刺激した可能性がある。
朝米両国は表向きは乱暴な言葉を交わしたが、“交渉”の機会を探索した。米国が先に一歩引いた。事件翌日の1月24日、板門店(パンムンジョム)で行われた軍事停戦委員会第261回本会議で、国連軍司令部首席代表のジョン・スミス海軍少将は、船舶と船員を解放し謝罪するよう述べ、そのような発言内容が記された文書を北朝鮮代表のパク・ジュングク人民軍少将に渡し、「米国政府が北朝鮮当局に送る警告」だと強調した。 国連軍司令部ではなく「米国政府」がこの問題の解決に直接乗りだすというシグナルだ。このようなシグナルを見逃す北朝鮮ではない。
水面下での交渉を経て、2月2日から朝米二国間会談が始まった。スミス少将は自らを「軍事停戦委員会首席代表として米国政府を代表し、事件交渉の全権を行使」すると明らかにした。米国政府代表ではないが、「米国政府を代表する」というこの皮肉な自己紹介は、朝鮮民主主義人民共和国の国際法的な合法性を否認してきた米国政府の公式見解と、二国間交渉で“答え”を探さなければならない現実との折衷だった。プエブロ号拿捕事件を契機とする事実上の朝鮮戦争後初の朝米二国間交渉の成功には、文化大革命後の朝中対立にともない軍事停戦委員会に中国軍代表が参加しなかった事情も作用した。紅衛兵が金日成を猛非難すると、金日成は公開演説で中国を「大国主義者」だと非難し、北朝鮮と中国はそれぞれ大使を召還するなど、神経戦を行っていたところだった。
北朝鮮と米国は10カ月を超える力比べの末に、「米国の謝罪」と「乗組員全員釈放」の対等交換に合意した。米国のギルバート・ウッドワード陸軍少将は「私たちが犯さなかった行動に対しては謝罪できない。私は、ひとえに乗組員を釈放させるという唯一の目的により、この文書に署名する」という声明を発表した後、北朝鮮が作成した「謝罪文」に署名した。
米国を相手に壮絶な認定闘争を繰り広げた北朝鮮には「米国政府の署名」が、米国には「否認声明」が重要だった。いわゆる「否認を前提とする謝罪」(repudiated apology)だ。「合意しないことに合意した」という言葉が雄弁に語るように、外交の世界では、衝突を回避するために自らをだますことも辞さない。ともかくこれにより、1968年12月23日、プエブロ号の生存乗組員82人と遺体1体が板門店の「帰らざる橋」を渡り、故郷の米国に帰った。リチャード・ニクソンが米国大統領に当選した直後だった。
北朝鮮はプエブロ号の船体を最後まで米国に返さなかった。1968年に元山港にえい航されたプエブロ号は、平壌(ピョンヤン)の大同江(テドンガン)の川岸にあるジェネラル・シャーマン号撃沈記念碑のすぐそばで展示され、今でも「安全保障の教育の場」として用いられている。
半世紀前の歴史をこのように深く掘りさげるのは、この事件の顛末が、30年以上に渡り朝鮮半島の平和を縛っている、いわゆる「核問題」をめぐる朝米の対立と交渉の「歴史的原型」となっているからだ。要するに「プエブロ号での朝米交渉は、敵対的な危機状況を新たに作ることにより対話が始まるという、朝米関係の『奇妙な公式』の起源だ」(ホン・ソンリュル『分断のヒステリー』、79ページ)。
「敵対的危機状況→対話と交渉」のパターンは、1990年代の「第1次北朝鮮核危機」、2000年代の「第2次北朝鮮核危機」、2010~2020年代の「第3次北朝鮮核危機」のすべてにおいて、例外なく繰り返されてきた。米国は問題解決に関心がないように見え、北朝鮮は全員を人質に取る当たり屋的な軍事行動以外には米国の関心を引きだす能力と知恵が足りないということが問題だ。
ところで、元山と平壌をつなぐ川はないにも関わらず、元山沖合で拿捕されたプエブロ号は、どうやって平壌の大同江の川岸に移されたのだろうか。多くの人々は鉄道などの陸路で移動したと推定しているが、北朝鮮はこれまでプエブロ号をどうやって移動したのかについては、公に明らかにしたことはない。北朝鮮との交渉に深く関与してきた元職の重鎮は、北朝鮮が陸路ではなく海路、すなわち「東海→済州海峡の外側→西海(黄海)→大同江」経路でプエブロ号を移動したことをほのめかした。
プエブロ号は「忘れられた過去」ではない。米国のワシントンDCの連邦裁判所は、2021年2月24日(現地時間)、プエブロ号の乗組員とその家族・遺族に北朝鮮当局は合計23億ドル(約2600億円)を賠償せよという判決を下した。北朝鮮は、2000年10月に米国のマデレーン・オルブライト国務長官(当時)が史上初の朝米首脳会談の準備のために平壌を訪れた時から、朝米関係の山場のたびに「プエブロ号の船体」を関係正常化の呼び水に使う考えがあることを隠さなかった。大同江の川岸のプエブロ号は、「金正恩・バイデン会談」という花を咲かせる関係正常化の呼び水になるのか、それとも、また別の衝突と対立の火種になるのだろうか。
イ・ジェフン|統一外交チーム先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )