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[朴露子の韓国・内と外]「国らしい国」と死の政治学

登録:2020-10-13 20:58 修正:2020-10-14 10:03

「国らしい国」とは、まず第一に生命を尊く思う社会、誰の死も無駄にしない社会だ。この社会が殺した弱者一人ひとりを永遠に記憶し、その記憶の力でこの社会を地獄にした制度を変えていかなければならない。

イラストレーション キム・デジュン//ハンギョレ新聞社

 韓国の近現代政治史で「死」は重要な位置を占める。皆が知るように3・1運動を触発させた触媒は、まさに(多くの朝鮮人が日帝による毒殺と疑った)高宗(コジョン)の死だった。7年後の1926年に起きた純宗(スンジョン)の死亡も6・10万歳運動を触発した。解放後には、政権反対者の苦痛に満ちた死がたびたび民主化運動の象徴となり、その導火線に火を点ける“事件”になりもした。1960年のキム・ジュヨルの死、1987年のイ・ハンヨルとパク・ジョンチョルの死がそうだった。その間に起きた1970年に焼身したチョン・テイルは、労働運動を象徴する“アイコン”になった。社会的他殺と規定できる最近のセウォル号沈没は、朴槿恵(パク・クネ)政権の名分も同時に沈没させた。私たちはよく韓国史の“躍動性”を賞賛するが、この躍動性の背後に隠れているのは、まさに歴史の分岐点ごとに誰かが流した血だ。

 しかし、苦痛を受けて死ぬとしても、“すべての”死が同じように記憶され、“運動”の触媒になるわけではない。韓国固有の事情ではないが、悲劇的にも弱者の苦痛に満ちた死の大部分は、そこにいかなる意味も与えられないままに、ただ忘却されてしまう。高宗・純宗は生まれながらにして朝鮮500年の象徴であったし、キム・ジュヨル、イ・ハンヨル、パク・ジョンチョルは「社会的運動に立ち上がった学生」として、学生運動の象徴となった。チョン・テイルは、工業化が生み出した新生労働階級を象徴することになり、セウォル号沈没の被害者たちは新自由主義国家から基本的な生命の保護さえも受けられなくなった、“国”が救助せずに溺死を放置した庶民の象徴となった。この死に対して社会が“関心”を傾けただけまだ幸いだが、多くの被害者たちはいくら苦痛に満ちて死んでも、その死は社会的な意味を付与されず、遺族たちにのみ記憶される。

 韓国で最も典型的な「自然でない死」は、労働者の労災死亡だ。一日に2~3人が落下して死に、何かに敷かれて死に、感電事故で死んでいるが、多くの場合はマスコミによって報道されなかったり、されても短信報道にしかならない。2年前、「人件費」を削ろうとする企業の貪欲により、一人で作業してベルトコンベアーに巻き込まれた労働者、キム・ヨンギュンさんは、頭部が機械に挟まれ切断されて亡くなった。そしてこのおぞましい死は、世間の耳目を集めて「キム・ヨンギュン法」の立法につながった。しかし、この法は労働者の命を保護することに失敗し続けている。政府は「危険作業2人1組」を公共部門に義務付けたというものの、この指針はまともに守られていない。キム・ヨンギュンさんが勤務していた泰安(テアン)火力発電所では、数週間前に再び1人の非正規職労働者が荷役作業中に2トンの機械に下半身を潰されて亡くなる事故が発生した。彼もキム・ヨンギュンさんのように一人で仕事をしなければならなかった。キム・ヨンギュンさんの死は、一時的に注目を浴びたとしても、労働が破片化され影響力を持ちえない社会では、利潤のために労働者を犠牲にさせるというおぞましい現実に対する正しい反省をついに引き起こせなかった。今年だけでも道路公社・住宅公社などが発注した事業で29人の労働者が死んだが、チョ・グク前長官の娘の表彰状やチュ・ミエ長官の息子の休暇の話で紙面を埋め尽くす保守マスコミはほとんど関心を示さなかった。この国では労働者の命はハエの命のようなものなのか、と思わずにいられない。

 韓国国内の労働者の死はそれでもまだ、「キム・ヨンギュン法」のように、意図は良いが特に効果を上げられなかった新しい法律の制定につながることはあるが、外国人労働者の死は韓国社会ではほとんど反響を呼び起こすことができない。事実、労災や労災死亡の危険への露出度は、韓国人より外国人の方がはるかに高い。2019年には、国内労働者全体の3%程度にしかならない外国人労働者が労災死亡者の10%も占めた。雇用許可制で入国してくる外国人労働者は、非正規職であり、大半は労組に加入しておらず、常に危険業務は彼らに容易に転嫁される。ところが、外国人が消耗品のように韓国人に代わって高危険業務に従事して負傷したり死ななければならないこの状況に対して、韓国社会は果たしてどの程度意識しているのか。機械に頭部を挟まれ切断されたキム・ヨンギュンさんが、仮に中国同胞労働者だったならば、果たして彼の死は社会的にそれだけの反響を引き起こすことができただろうか。

 外国人工場労働者だけが命がけで仕事をしているわけではない。家事・育児労働者として規定されがちな移住女性たちも、明日を約束されない生活を送るケースが多い。韓国に入ってきた結婚移住民女性のうち半数程度は家庭内暴力に苦しんでいて、2007年から2017年までの10年間に、それによって15人の外国人女性が犠牲になった。韓国で労災と暴力、そして不自然な死にさらされている外国人の暮らしを本格的に改善しようと思うなら、労働者を現代版期間制奴隷にする雇用許可制を廃止し、労働許可制に変えるべきであり、夫の暴力が申告されれば結婚移住民が離婚して独立して、韓国に滞留し続けられる「資格」を与えなければならない。しかし、外国人の死が続いても、その死に対して社会が意味を与えることを事実上拒否しているのだ。その結果、今まで制度改善要求が世論を主導できずにいる。

 忘却される無残な死は、国内外の労働者が死に続けている工場や工事現場にとどまらない。38度線も相変らず人々を殺している。最近、越北を試みたと推定される韓国の公務員を北朝鮮軍が射殺して韓国人の怒りを誘発したが、7年前に韓国軍が臨津江(イムジンガン)に飛び込み越北を試みたNさんという韓国住民を射殺した時には、与党も野党も何ら異議を唱えなかった。事実「越境者」を射殺してもかまわない「敵」と見なすという点では、南北双方の軍部に大きな違いはない。軍部のこうした統制に、南も北も分断70年で慣れてしまっている。南北いずれか一方での人生の重さに耐え切れず、良い暮らしを求めて他方に行こうとする人を、裁判もなしに事実上の死刑執行にしている「理由」を尋ねようともしない。南北両方の憲法上は依然として一つの国となっている朝鮮半島の地図の中に、移動の自由を実現しようとすることは本当に「死に値する罪」なのか?北朝鮮に送ることよりも冥土に送ることの方がましなのか?これが果たして、自由民主主義社会の人命尊重の態度なのか?

 「国らしい国」とは、まず第一に生命を尊く思う社会、誰の死も無駄にしない社会だ。この社会が殺した弱者一人ひとりを永遠に記憶し、その記憶の力でこの社会を地獄にした制度を変えていかなければならない。どの犠牲者も忘れることなく、すべての死に平等な意味を与えることが変革の原動力だ。

//ハンギョレ新聞社
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大学教授・韓国学 (お問い合わせ (お問い合わせ japan@hani.co.kr ) )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/965589.html韓国語原文入力:2020-10-13 19:14
訳J.S