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[クォン・テソン コラム] ‘熱心に’ よりは ‘幸せに’

原文入力:2009-05-12午後11:41:58
←クォン・テソン論説委員

人々は前だけを見てせっせと私を抜いて行きました。/私は山を見たり水を見たり、雨脚が川の水を渡って行く様子も見て/花が咲き散るのも見ながらぶらぶら歩くことにしました。(キム・ヨンテク,‘自画像’)
キム詩人と違い私たちの大多数は前だけを見て勤勉に先んじていく人々だろう。前だけを見て我を忘れて走って見たら「私は私ではない。私を思い通りにできない妻の夫です。子供たちの前で私を私の心のままにすることもできない3人の子供のパパです。私を私の心のままにできない40代の職場労働者です。」というある男性のブログ告白のように自身を忘れたまま生きるのが常です。

もちろん私たちにしても前だけを見て走りたかったのではありませんね。そうしなければ競争社会で生き残ることができないという私たちの社会の警告を無視できなかっただけですね。警告におじけづいたまま考えもなしに駆けてきた私たちは、また私達の子供たちに同じ警告を送って生きます。子供が同じ年頃に遅れをとるかと思って、幼稚園バスを待ちながらも一言の英語練習をさせてやっと安心するのが私たち家族です。小学校に入れば外に出て行って仕事をしながら、塾には行ったか、試験勉強はしているか、絶えず監視していなければ不安なのが私たちです。良い大学に行って良い職場を得て、それではじめて他の人に遅れをとらずに暮らせるという盲信のためですね。

しかしこうして前だけ見て走った結果、私たちの社会はストレス社会になりました。ストレス性疾患の過剰行動障害が幼稚園の子供から現れて学年が上がるほどストレスは高まるのみで、中高生の半分ほどが深刻なストレスを訴えている状況です。良い職場に就職しても状況が良くならないということは、職場生活の頂点にある45~59才壮年層男性5名中1名がうつ病患者であり、その3分の2が自殺を考えるというまた別の調査結果で確認できます。我が国は経済協力開発機構(OECD)会員国の中で自殺率1位という汚名を負っているばかりでなく、さらに驚くことは全体自殺者の中で40~50代が最も多い33%に達するという点です。

私たちの家庭、私たちの社会がこのように病に罹っているのに、私たちはずっと前だけを見て熱心に走ていればよいのでしょうか? 代案がないですって? いえ、代案がなくはありません。私たちが忘れてきた共同体的価値を復元すれば良いのです。勝つことが至高の価値になる競争体制の中では1等でさえ幸せにはなれません。ソウル大入学生が ‘入るのに苦労しただろう’ という教授の慰労の言葉に涙を流す状況ですから。共に生きる世の中という価値を回復せずには、私たち皆を病気にしてしまうこういうものすごい競争社会を幸福が人生の中心価値になる社会に変えることは難しいのです。

共に生きる世の中を具現しようと努力しているのが北欧の福祉国家たちです。これらの国の国民は、自分が困難に陥れば社会が自分を助けてくれるだろうという確信を持って納税の義務を負います。私たちも税金を出さないほど良い無念な支出としてでなく、働き口を失ったり病気にかかる時に備えた保険であり、苦しい隣人に対する分かち合いだと考えるならば、世の中は変わることができます。もちろん国民がこういう考えるからには、国家はその恩恵が中産層をはじめとする大部分の国民に及ぶことができる福祉システムを作り福祉制度に対する信頼を植え付けなければなりませんけどね。

競争の大枠にはめられた地獄から私たちをすくい出そうとするなら、盲目的に熱心に生きる代わりに幸せに暮らすことを探さなければなりません。宗教など個人的次元でその道を探すこともできるでしょうが、共に生きる人生を可能にする社会制度を作り出すことでその道を探すこともできます。私たちはどんな道に行かなければならないでしょうか?

クォン・テソン論説委員kwonts@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/158/354610.html 訳J.S