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[カン・ジュンマン コラム] 弱者の怨恨

原文入力:2009-04-19午後08:25:42
←カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

「現代民主主義体制は恐らく弱者の復讐と怨恨に内在する合理性あるいは正当性を創造的に認めたおかげで発展したのだろう。例えば ‘社会的正義’ とは何か? それを単純に道徳的に理解するのではなく創造的に理解してみよう。それは弱者の怨恨と憤怒が創造的に認められ新しく生まれた権利だ。」キム・ジンソク仁荷大教授が最近出版した<ニーチェはなぜ民主主義に反対したのか>(蓋馬高原)に出てくる言葉だ。この本は妙だ。ニーチェの話をしていながら、私たちの社会の深い隈までを見られる見識を提供するということだ。キム教授が韓国民主主義を論じて「ニーチェの哲学を議論する本であるからこの程度で満足しよう」とすれば、どれくらい悔しがるか分からない。いや哲学が何だってそのようにわざと取り澄まさなければならないということか?

ニーチェは ‘弱者の怨恨’ を嫌悪しながらも、それが現代的な方式で無数の顔を持つものだと予感していたという。どんな社会でもその顔のアイデンティティを巡って社会的葛藤を経るものだが、その葛藤はしばしば ‘弱者の怨恨’ を嫌悪する側に結末を結ぶようだ。それが創造的結実を結んだ後には間違いなく堕落してしまうためだ。なぜそうなのか? キム教授の次のような話に答の糸口を見つけることができそうだ。

「現代社会の個人たちは自身の弱点は欠陥ではないと主張し、そこから生じる差別を批判するが、同時に自身の強力な点から由来する利益や名誉はそのままに享受し差別を認めるという二重的態度を見せる。」

そのような二重的態度は ‘強弱’ が相対的であり、連続線上の概念だというところから始まることでもある。地方の都市居住者が ‘ソウル覇権主義’ を非難しながらも、自身が生きている地域では農村に対する ‘都市覇権主義’ に目を瞑る場合を考えてみよう。 ‘弱者の怨恨’ がしばしば表わす限界であり矛盾だ。

‘弱者の怨恨’ を堕落させる媒介はいつも銭だ。「銭は原初的に無意識の対象」だとしたジェームズ・ヒルマンの言葉が胸に迫る。1789年のフランス革命や1917年のロシア革命はすべての政治経済システムを変えたが、ただ一つ変えることができなかったもの、それはすなわち銭のシステムだ。銭は革命の上に存在する。数多くの革命家や改革家たちが終局には銭で滅び行くのもまさにそのような理由のためだ。

意識の世界では彼らの敗家亡身は ‘権力・金力・名誉 3分法の破壊’ のために発生する。私たちの人間の生は他人の認定を得るための闘争だが、社会的認定の基準と闘争方式があまりに画一化されている。最も理想的であるのは権力・金力・名誉の3分法が守られることだが、三種を皆持とうとする人々がとても多く、それが当然視される風潮までが蔓延している。そのような風潮に乗って公職の機会費用に対する過大評価が発生する。自身の力量であれば公職に就かずに個人的な金儲けに出た時にある程度を儲けただろうという計算を自己中心的に行い、権力を利用してその銭を受け取ることを当然に思う。罪悪感もなく恥もない。断罪の公平性にのみ執着する。強者になった以後にも相変らず ‘弱者の怨恨’ を持っているためだ。

しかしいかなる問題であれ ‘弱者の怨恨’ が持たらした社会的祝福を過小評価しない均衡感覚が必ず必要だろう。キム教授はニーチェを指して「人間社会が文化的に高揚されるために必要だった暴力に対して、とても生き生きと証言することに狂ってしまった証人」と語った。私たち全ての省察を圧迫する偽悪的達人とでも言おうか。<ニーチェはなぜ民主主義に反対したのか>は久しぶりに巡り会った頭脳訓練もかねた必読本だった。

カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/350635.html 訳J.S