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[クァク・ビョンチャン コラム] 独島(ドクト)密約、今こそ話さなければならない

原文入力:2012/08/15 21:35(2012字)

朴正熙政権はなぜ独島(ドクト)守りの手をへし折ったのか

←クァク・ビョンチャン論説委員

  軍事独裁政権や保守政権が最も議論を忌避した問題は不思議な事に独島であった。 政治的に窮地に追い込まれると常に持ち出して、反日感情を刺激して局面を転換させたりしたが、彼らの基本的な態度は無関心だった。 それを知らずに、政治的パフォーマンスに巻ここまれて善意の被害を受けたケースも少なくなかった。 代表的なのがホン・スンチル独島義勇守備隊隊長だ。

  歴史的に独島を守ってきたのは国家ではなく民間人だった。 朝鮮朝鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)から倭寇を追い出したのは民間人アン・ヨンボクだった。 解放後、独島を守ったのは予備役特務上佐ホン・スンチルと33人の民間人だった。 ホン氏は戦争を絶好の機会として利用し独島を自分の家に出入りするようにしていた日本人たちを追い出すために義勇守備隊を組織した。 政府の支援もなく、家産を処分して義援金を集め機関銃・迫撃砲などを購入して義勇隊も募集した。 守備隊は日本海上保安庁所属艦艇の侵犯を2度も撃退し、偽の海岸砲を設置して日本艦艇が接近しないようにする機知も発揮した。

  問題はその情熱だった。 守備隊から退いた後にも1969年、1972年に独島開発計画書を慶尚南道(キョンサンナムド)に提出するなど実効的支配を強化するよう催促した。 朴正熙政権はそれが負担になった。 ホン隊長は1974年12月、中央情報部に連行され3日間にわたり拷問にあった。 中情の要求はこれ以上‘独島は私たちの領土だとして騒ぐな’ということだった。 二度と文を書けないように彼の右手を折ったりもしたと夫人パク・ヨンヒ氏は伝えた。 学校で朝礼のたびに‘民族中興の歴史的使命’をわめきたてた政権がなぜそうするのかホン隊長には分からなかった。

  全斗煥の新軍部でも全く同じだった。 新軍部は1980年代初め、彼が独島守りで北韓の放送に紹介されると、彼を直ちに逮捕して猛烈な拷問を加えスパイにでっち上げようとした。 結局、拷問の後遺症でホン隊長は1986年に亡くなった。 全斗煥政権は独島を天然記念物に指定して民間人の出入りを阻み、さらには歌曲‘独島は私たちの土地’を禁止曲に指定した。

←独島(ドクト)

  1965年1月11日ソウル、城北洞(ソンブクトン)パク・コンソク汎洋商船会長のホームバーでチョン・イルグォン国務総理と日本自民党の実力者 宇野宗佑議員が一つのメモにサインをした。 ‘未解決の解決’という原則により成案された次のような内容の独島密約だった。 最初に、独島は今後、大韓民国と日本双方が自国の領土だと主張する。 反駁しても異議を提起しない。 第二に、漁業区域を設定する場合、両国共に独島を基点に画定するものの、重複する部分は共同水域とする。 第三に、現在の大韓民国が‘占拠’している現状を維持する。 しかし警備員を増強したり新たな施設を建て増しはしない。(ノ・ダニエル著<独島密約>) 結局、未解決状態を解決と見なして、独島に言及しないということだ。

  一週間後、1年を超えて膠着した首脳会談予備会談は再稼働され、6月22日韓-日協定が締結された。 同時に発表された韓-日 漁業協定は独島周辺海域を共同規制水域と規定した。 密約内容そのままであった。 共同規制水域あるいは中間水域規定は今でも守られている。 任期末に突然‘悪い行儀を正す’として一戦不辞を叫んだ金泳三政府も、独島近隣海域を暫定的措置水域(中間水域)として受け入れた。

  密約も密約だが、朴正熙・全斗煥政権は日本政府と民間から莫大な政治性資金を受け取り使った。 朴正熙は請求権資金以外に1965年まで5年間に6ヶの民間企業から6600万ドルの政治資金を受け取り、全斗煥政権はスタートするやいなや日本中曽根政府から40億ドルの借款を受けた。 従って独島に食い下がるホン隊長をそっとしておくことは難しかっただろう。

  李明博大統領が日本に対する攻勢を強めている。 天皇まで挙論した。 もちろん後処理もできないで撃った口先だけの大砲という見解が多い。 実際、パク・ジョンウ選手はその被害者であった。 だから真正性があるならば明らかにしなければならない。 独島密約の真相と破棄の有無についてだ。 それでこそ‘独島ショー’だとか、政治扇動だとかいう消耗的論難を防ぎホン・スンチル、パク・ジョンウのようなあきれた犠牲も防げる。

クァク・ビョンチャン論説委員 chankb@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/547295.html 訳J.S