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[朴露子ハンギョレブログより] 私たちの邪教、「先進性信仰」

http://www.redian.org/archive/6140

原文入力:2012/06/14 21:17(4325字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 15年も前のことだったと記憶していますが、初めてソウルで暮すようになってから私は一度ラジオ放送を聞いたことがあります。私はテレビ嫌いなので絶対に購入しませんが、ラジオはうちの家族の住んでいた借家に当初からあったもののようです。その放送とは、国内外の「史学界の元老」たちの座談会でしたが、そこで最後に北朝鮮の話が出て、特に保守的だったある「元老」は「これは国家、国家というより、単なる邪教集団にすぎない」としゃべりまくりました。かなりの年配の方だったように記憶していますが、本人もひょっとすると土地改革の際に地主と目され財産を奪われて越南したことに対する凄まじい恨みを持つようになったのではないかという気がするほどでした。声の調子からは「邪教集団」に対する感情は全く個人的なもののようでした。彼の興奮した声と「邪教集団」という悪口に近い北朝鮮社会に対する規定は、なんとなく脳裏に焼き付けられ、今でもありありと覚えています。

 「邪教集団」? この表現そのものは果して学者の使いうる用語でしょうか。「オウム真理教」などといった内部の結束と外部との異質化の強い一部の新興宗教集団がテロ行為などの反社会的な行動を起こす時は、当然その行動を取り締まり処罰しなければなりませんが、当該集団の宗教信仰そのものを「邪教」と目して排除、差別するということは既に人権侵害になってしまうでしょう。「オウム真理教」もそうですが、たとえば統一教などといった一部の新興宗教の唯我独尊的で独善的な態度は私のみならず多くの人々に「異様に」受け止められるかもしれませんが、少し考えてみればすさまじい独善、自閉性、自己絶対化は彼らだけの専有物ではないのではないでしょうか。信者でない人々は救われないという風な韓国の「普通」のプロテスタント集団の神学水準になれば、十分に人類の大多数を地獄に陥れる最悪の独善ではないでしょうか。韓国の保守的な「主流」プロテスタントもそうですし、統一教などの新興宗教もそうですが、資本主義社会のある種の慢性疾患症侯群に当たるでしょう。この狂った社会で幾多の人々が狂信でないいかなる方法ででも孤独や孤立, 無力感から逃れられないということを赤裸々に見せ付けようとしているのはまさにこれら宗教集団です。にもかかわらず、問題の根源である資本主義にメスを入れようとせずに、個人の信仰そのものを問題にすれば、これは新たな排除と差別につながるだけであり、何の解決にもならないでしょう。そのため、私は「邪教集団」のような言葉をあまり使いません。宗教集団に対してはですね。

 「邪教集団」という言葉が学者の口から出ると異様に聞こえるものの、北朝鮮のような「唯一思想」、指導者崇拜などの問題性は可視的です。階級性を欠いた思想だけで階級の論理で動く世界を正しく認識し実践することは不可能です。たとえば、絶対化された「反外勢」、本質化した「米帝」のイメージからはたった今「オキュパイ」運動を展開している貧しく怒れる若者たちと連帯しうるいかなるきっかけも見えてこないことが問題です。植民地期のトラウマの結果でしょうが、階級的に複雑に分化しているアメリカや日本社会を画一化された「敵」のイメージでのみ捉えようとすることは問題といえるでしょう。北朝鮮をひっくるめて画一的な「全体主義的悪魔」として描く米帝の保守メディアのレベル、すなわち「敵」のレベル以上にはなれないのです。ところが、北朝鮮の思想の問題性は目に付きやすいですが、南韓の実質的な「国是」の問題点はむしろ巧妙に隠蔽されているため、遥かに深刻だと思います。北側の「唯一思想」と異なり、その「国是」は必ずしも明示されてはいません。しかし、南韓のほぼすべての社会、政治勢力たちのあらゆる動きの中にその「国是」は溶かし込められているため、その毒で数え切れないほどの他者に拭いきれないほどの傷を残してしまうのです。その「国是」、隠された南韓の真のイデオロギーの名は?「先進性信仰」というものです。この信仰に比べれば、統一教や「オウム真理教」はまさに子供の遊びにすぎません。

 開化期の「文明開化」熱、植民地期の「実力養成」論、李承晩時代の「アメリカの友邦、自由大韓建国」物語、朴正煕の「祖国近代化」、そして1990年代の「国際化」などの系譜を継いだ「先進性信仰」は、右派の側では完全に「隠された」ものでもありません。あからさまに「先進化」を吹聴しています。彼らの言によれば、この「先進化」は「起業しやすい国家」、「福祉社会」、「多文化社会」、「世界に羽ばたく大韓民国」等々を意味しますが、そのモデルは概してイギリスや日本などの福祉主義的な要素は若干持っていても足早に新自由主義を志向している「先進国」たちです。問題は「先進」の掛け声の陰に隠されている現実です。掛け声は威勢よく光り輝いて見えるものの、その陰に隠されている実質的「内容」は主体思想以上に殺人的です。「起業しやすい国家」とは企業があらゆる法律を完全に無視し非正規労働者を搾取するなどの、極端な利潤最大化を強引に推し進めても何の支障もない「企業国家」を意味します。たとえば社内下請・不法派遣が法律に抵触しても派遣労働者たちを「直雇用契約職」にすり替えるなど、正規雇用化要求を巧妙に、かつ執拗にかわしている今の現代自動車のように()です。「福祉社会」とは搾取される大多数の労働者たちに与えられるわずかな「にんじん」を意味します。たとえば、医療業者たちの所得を保障したりする医療保険のようなものがそれです。しかし「起業しやすい国」とは異なり「福祉」関連の政府、「主流」政党のあらゆる約束は例外なく破れてしまいます。「半額授業料」のことを覚えているでしょうか。実際に、去年以降授業料が平均で4.5%下がっただけで、これも追加引き上げが成されれば無意味になってしまうでしょう。「多文化社会」とは主に貧しい国出身の結婚移民者たちに対するハングル教室などのような「同化」の推進を意味します。もちろん、いくら同化されても「奴隷」に近い「身分」には大差ありません。「多文化社会」の中で移住女性の約20%は家庭で物理的な暴力にさらされ、絶対多数は暴言、侮辱、情緒的暴力にさらされています(http://ljh.ingopress.com/639)。定住の可能性が遮断された絶対多数の移民労働者たちは「多文化社会」とは何の関係もありません。そして「世界に羽ばたく大韓民国」とは以上のような掠奪、搾取、暴力を海外に「輸出」することを意味します。たとえば、韓国の企業人(紡織業)から「包丁テロ」などのあらゆる暴力にさらされたフィリピンの闘う労働者たちに関する話をご覧に入れましょう。http://www.laborrights.org/creating-a-sweatfree-world/wal-mart-campaign/chong-won-fashion-philippines/resources/10690 ウォールマートなどの世界レベルの野獣たちから製品調逹の契約を取りつけ、アメリカ人に「代行」してアジア、アフリカの労働者たちを野蛮的に搾取することが「我らなりの世界化」の本当の顔です。

 以上見てきたように、保守/「主流」の「先進性信仰」とは、イギリスや日本より遥かに野蛮な、それだけ資本の利潤最大化に更に適合した社会の建設に対する固い信念を意味するのです。自国の労働者/貧民たちも、外国の労働者/貧民たちも死ぬまで殺人的な「競争」の泥沼から抜けられない、その代わり資本の利潤率はそれなりに維持される、そのような社会を当然視し肯定することがまさに「先進性信仰」の核心なのです。しかし、非主流、「進歩」だからといって「先進性信仰」の 磁場から完全に離れているわけではありません。「先進性信仰」の重要な要素は(新自由主義導入の事例からわかるように)「先進外国の経験」に全面的に頼り、それを無批判的に受け入れ盲従することですが、このことは保守のみならず、「進歩」の持病でもあります。1990年代初中盤、東欧圏崩壊の影響で「社会主義」、「階級闘争」、「反資本主義」がアメリカの学界で一時的に禁止語になった際(今はこの類に対する非公式的な「禁止」は徐々に解除されています)、その影響を最も早く、最も多く受けたところはまさに韓国の「進歩」学界でした。資本が労働者から利潤を絞り出すのはそのままなのに、一時は学界で資本の「象徴生産」、「象徴交換」、「言説生産」のみが注目されたりしました。「進歩」学界でです。保守学界における現今の焦眉の課題は「先進的な大韓民国」を建てるのに最も貢献したとされる「建国の大統領」、「アメリカ人よりもっとアメリカ的な」李承晩や日帝時代の転向者、さらに総督府と親しかった企業人や総督府で働いた官僚たちの「名誉回復」です。「先進的な大韓民国作りに礎石を据えた先進的な総督府万歳!」、これです。これだけ「先進化」されれば、息が止まりそうで、これ以上何かを求めるのも難しくなるほどです。

 その閉鎖性はあまりにも可視的な主体思想よりは、滅びつつある「先進圏」の新自由主義や「ポスト」などに無批判的に追随する私たちの「先進性信仰」の他律性と無批判性、そしてその中に隠されている「後進的」他者たちに対する差別と暴力こそが「邪教」に一層近いのです。私たちが「第二のアメリカ」、「第二の日本」を作ろうとして、結局は平民が安心して好きな勉強もできず、恋愛もできず、結婚して子供を生むこともできず、一瞬たりとも「競争」の圧迫から逃れられない地獄のような社会を作ってしまいました。たった今この弱肉強食、勝者独食のジャングルの食物連鎖の最も底辺で心と体を壊しながら何の意味もない「勉強」に縛り付けられ様々な暴力に傷つけられている私たちの子供たちは、果たして「競争」と「先進性」を唯一神としてまつる邪教に集団的に取り付かれてしまった私たちを許してくれるでしょうか。私たちは果して彼らにどんな世界を残してやろうとしているのでしょうか。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/49773 訳J.S