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[朴露子ハンギョレブログより] 悲しい考え : 左派の危機

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/42390

原文入力:2012/03/16 11:37(3939字)

 私は今このブログの文を北大西洋上を飛ぶ飛行機の中で書いています。すでに3週目を迎えたとても酷い風邪で首が痛く、飛行機の中にいることがとても苦痛ですが、ブログを書いていれば首が痛いという現実を忘れるので薬効と思わなければなりません。 機内でインターネット接続はできませんが、学会発表のために行くカナダのトロントに到着してすぐに上げようと思います。

 隔離された空間にいるせいか、自ずと "記憶" の中へ時間旅行しがちになります。 1980年代初期、日に日に危機に向かって駆け上がっていたソ連の知識人社会を両親の親戚や知り合い等を通じて知るようになった時期です。その頃になると私の祖母のような老人たちは強力な共産主義的信念を保有し続けていましたが、私の父母の世代、すなわち1960年代に青年期を迎えた壮年層の "信頼" は多くの亀裂を見せていました。 その実質的な原因は非常に複合的だったのですが、少なくとも表面的にその "信念危機" の中心に位置していたものは1968年チェコスロバキアに対する旧ソ連(といくつかの東欧圏国家)による武装干渉、そしてアフガン侵攻、正確に言えばソ連派遣軍がアフガン内戦でカルマル、ナジブなどアフガン革命政府側に立ち武装干渉したという事実です。 一種の開放型社会主義を追求し、ある面では現実社会主義と西欧式社民主義の長所を一緒に接続させてみようとするチェコスロバキア共産党内の改革勢力の果敢な試みをソ連がこの武装干渉で挫折させたことは、もしかしたら歴史的犯罪に該当すると見なければならないかもしれません。 そういう類の試みでこそ現実社会主義の1970年代以後の危機を未然に防止できたからでしょう。

 歴史に対する罪であることは明らかですが、チェコスロバキア軍が抵抗しなかった関係でその干渉の直接的犠牲者は約200人内外でした。 アフガンに対する武装干渉ははるかに多くの犠牲を産みました。ソ連軍の派兵は誤りであっても、恐らく最近半世紀間の歴代アフガン政府の中ではカルマルとナジブの革命政権はそれなりに最も進歩的だったと見なければなりません。 しかし犠牲の規模や ソ連の "武装支援" の対象になった政権の性格とは関係なく、国外侵略をほうふつとさせる国家のすべての行動に対して良しと見る知識人は1980年代のソ連では本当に少なかったのです。 国外派兵に対する批判は、プレジネフ政権に対する嫌悪を越えて "社会主義" 理念自体に対する懐疑を強化させ、別の見方をすれば1980年代末のペレストロイカ政策とその後の亡国を "理念的に準備した" とも見ることができます。 プレジネフ政権は "社会主義" というよりは、硬直した官僚らの保守化された地政学的な基盤によって作られた価値観を代弁していましたし、同じ期間に米国の対外侵略は数十倍以上の犠牲と比較もできないほどの破壊を産みましたがんそれでも "アー、社会主義祖国がどうしてこんなことができるか" と考え失望した人々にはそのことを説明することも難しかったでしょう。

 ソ連だけではありませんでした。1960-70年代の世界ではどこへ行こうが対外侵略は体制を脅かしたり、少なくとも社会に大きな衝撃を与える程度の抵抗を呼び起こしました。 もちろんベトナム派兵に対する反対が殆どなかった我が大韓民国は別にしてです。 近隣の日本でも、たとえごく少数ではあっても新左派は自国をベトナム侵略の兵たん基地にした支配層に対して名実共に宣戦布告をしたではないですか? ベトナム闘士を助けるとして、赤軍派がたとえ方法は誤り成功の可能性もなかったけれど、その意図だけは本当に高貴だった武装行動がドイツで開始されたし、米国とフランスではホーチミンと毛沢東の写真を持って行進したデモがほとんど体制を脅かすような印象を与えました。 ベトナム闘士のイデオロギー(儒教化され民族主義化されたマルクス-レーニン主義)は西側民主主義とはもちろん、新左派が夢見た民主的な、参加中心の社会主義とも必ずしも一致しなかったし、抵抗者などの一部の行動(現地社会での親米反逆者処断等々)は避けられなかったとしても残酷さすら感じました。 それでも彼らに対する同感は絶対的でした。 「対外侵略は絶対罪悪、抵抗は無罪」というのは1960-70年代の "意識ある" 人々の通念だったためです。

 西側でも東欧圏でも1980年代レーガンとサッチャーの反動的政策と英米圏社会の保守化、そして1980年代東欧圏での社会主義理念放棄と保守化、反動化以前には対外侵略は“当然”罪悪として認識されていました。 第1次世界大戦という無意味な殺戮とヒットラーの蛮行が人類に教えた教訓といえば、軍事主義と侵略以上の罪はないということではないですか? とても高価なレッスンでした。 ところで一度今日の世界を見て下さい。 今、終身執権に準ずる長期独裁を夢見るプーチンを“救国の英雄”にした1999年以後のチェチェン侵略とチェチェン独立運動の抹殺、傀儡政権樹立などに対して、ロシア左派は果たして闘争は脇に置いたとしても“批判”の一つもしたでしょうか? 国内にも紹介されたカガルリツキーとタラソフなど一部左派論客は文でチェチェン独立運動に対する抹殺に抵抗しましたが、ロシア連邦共産党(KPRF)を始めとした社民主義やその左側にいる制度的左派勢力はプーチンの肩を持ったり或いは立場の表明を忌避しました。 結局、チェチェン抹殺で民心を得たプーチンという世界的規模の泥棒でありチンピラでもある彼は今でも滅びたソ連の遺産とその領土内の地下資源を盗み出しながら権力を享受しています。 チェチェンで悲鳴とともに亡くなった方々の数は1968年のチェコスロバキアでの200人より約千倍も多いと推算されますが、チェチェン侵略に対するロシア内部での批判はチェコスロバキア武装干渉に対する失望に比べてあまりにも微弱でした。 結局これは犠牲の規模問題でもないわけです。 “プラハの春”に対する武装弾圧に失望したソ連の知識人はその時でも“侵略は罪悪”という左派的な集団意識を共有していたでしょう。 その意識は今はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか?

 西側にしても良い状況は全くありません。 イラク侵略に対する反対運動はかなり規模が大きかったとは言え、結局イラクでの米帝の侵略を敗北させたのはその反戦運動というよりはイラクでの英雄的な抗米武装闘争でしたね。 今アフガンでは雇われ殺人者水準に転落した米国軍人がしている行動は天下に知られています。 “面白半分”で民間人を殺害し、その斬られた首を持って記念撮影すること、“敵”の遺体に小便をかけること、コーランのように現地で神聖視される本を焼くこと、16人の民間人の命を奪った銃乱射…。アフガン侵略それ自体も犯罪であり、その大きな犯罪の枠組みの中ではあらゆる奇怪な犯罪が全て行われているものの、この犯罪だらけに対する“威力的な反戦運動”はどこにも見られません。 侵略の不振と加熱された抵抗の成功的展開により“自国軍隊”の犠牲にショックを受けることになった欧米人の大部分はアフガン侵略の中止を望んでいるというのにです。 世論調査上そのように望んではいるものの、1960年代末のベトナム戦争反対運動と比較されるほどの“行動”はありません。 主な抵抗勢力であるタリバンの狂信と残酷性が気に入らなくてそうなのでしょうか? ところでベトナムでの反米抵抗主導勢力はタリバンに比べればはるかに近代的でしたが、やはり西側の人々が考える政治的理想とは距離の遠いことはしました。 それでも米帝との抗争で彼らを全面的に支持した理由は、現地政治勢力の性格はどうであれ帝国主義侵略がどんな名分でも合理化されえないためです。 旧韓末の義兵が性理学的保守主義者だったとしても、儒林系統のその一部の指導者が奴婢解放に反対し女子教育に反対したとは言っても(毅菴(ウィアム)柳麟錫(ユ・インソク)先生は代表的にそうでした)彼らに対する一群の討伐を正当化することができますか? 問題はタリバンの狂信や保守性ではなく、西側社会で去る30年余りの間に起きた変化です。旧東欧圏と同じように、欧米圏も1980年代の反動時代以後には右傾化されたし、“侵略は罪悪”という左派的な通念から大きく抜け出しました。 その結果はあまりに悲劇的です。 約2万人以上の現地人たちを殺したと推算されるリビアでの英国、フランス、デンマーク、ノルウェーなどの侵略に見るように、この頃の西側勢力の“外部”での数ヶ月間の爆撃程度なら欧米人の大部分はほとんど省みることもせず認識することもありません。 名分さえ良ければかまわないということです。

 世界の左派は今フェニックスのように再び起たなければなりません。 従前のように大企業高熟練組織労働者に対する排他的依存性を抜け出し、移民者、青年層、未組織サービス業労働者などすべての疎外された周辺分子を組織的に糾合しなければならず、党官僚独裁方式ではない“下から”の参加で運営される民主的な計画経済と非官僚的社会主義に関する理論から整備しなければなりません。 そして脱軍事化、侵略反対の旗じるしをもう一度高く掲げなければなりません。 そうしなければ今日アフガン侵略のような悪夢は何度でも繰り返されるでしょう。

原文: 訳J.S