原文入力:2012/01/27 01:19(4878字)
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
筆者の説明:最近(実は筆者を含む)全国の教授が仏教用語である"破邪顕正"を"2012年希望の漢字成語"に選んだので、進歩的仏教メディアである<仏教フォーカス>が私にこの用語の現在的意味を説明する文を依頼しました。私は依頼されたとおりにそういう文を書き、その文は<仏教フォーカス>に掲載されました: 今度は<仏教フォーカス>編集長の許可を得て、ここにその文を再掲載します。 どう考えてもこのブログの読者の方々の中で<仏教フォーカス>を見る方は少数である可能性が高く、このように再掲載することにしたのです。 ところで再掲載に先立ち、仏教と現今の現実に対する私の立場を若干先にご説明申し上げなければならないようです。
私はマルクス主義的立場から現在のすべての"制度"宗教がすべて抑圧のための、そして被抑圧者の自己欺瞞のための二重的道具であると考えます。仏教徒も例外ではありえず、私はこのような次元で曹渓宗などの仏教分派に所属したり寺刹に行って信仰行為を行うことは百害無益だと考えます。 原始仏教は今私たちが"仏教"と(間違って)理解している"宗教"に比べて、質的に違うものだというのは確実なことですが、仏教を創始した釈迦牟尼仏とその直接の弟子の多数が支配階級出身男性であっただけに、原始仏教もやはり家父長的な抑圧を認め極度に不公平で不正義な現世に対して"距離をおくこと"を宣言しただけで、現実を変えられる理念とはなりえませんでした。 しかし、それと同時に原始仏教の縁起論や因果論などは世界哲学史で最初に"総体性"というマルクス主義哲学の次元でも大変重要な部分を弁証法的に解明するなど人類の優れた歴史的遺産であることは間違いありません。 また空の概念は"現象"と"本質"の差を初めてきちんと把握させ、人間、人類のある種本源的な"限界"をよく指摘しました。 特に資本主義が自然界を破壊する今この瞬間においては万物の有機的関連性を哲学的に立証する縁起論などは明確に人類の生存のための反資本闘争の理念を哲学的に裏付ける一つの"背景"となることができます。 また、仏教の慈悲論は、資本主義的状況で人間として達成することがきわめて難しい"真の人間"の理想を提起することによって、この体制の本質的限界をよく反証します。 一言で言えば、仏教をあえて宗教的に"信仰"しなくとも、仏教的思考の枠組みを援用することにより資本主義克服のための思想的作業を十分に行えると考えます。 まさにこのような考えに基づいて下の文を書いたのです。
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<教授新聞>によれば全国の教授が2012年の“希望の四字熟語”として仏教用語である“破邪顕正”を選択したという(http://www.bulgyofocus.net/news/articleView.html?idxno=64623)。 選定過程に参加した教授の中でこの四字熟語を選択した41,2%は、果たしてどういう思いで“誤った事物を正し、正しい道理を明らかにする”という本来の意のこの成語を選んだのだろうか? それは分からないが、推測すれば恐らく相当部分は2012年の総選挙と大統領選挙で本当に‘邪’の化身としか見られない今日の執権極右徒党を追い出すことを希望しつつ“希望の成語”として“破邪顕正”を選んだのではないかと思う。 その希望を、筆者も当然に共有する。
罪もない川が殺されることも、狂った反北政策が新たな延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件のような悲劇を刺激、挑発させることがこれ以上はないことを筆者も希望するからだ。 問題は、‘邪’に育った政治詐欺師一味を追い出し、外観は違っても本質は同じであるもう一つの集団を高位選出職に押し込んだとしても‘顕正’はできないということだ。 たとえば今日の執権詐欺師一党が行った龍山惨事に較べて、その前の執権詐欺師一味が行った大楸里(テチュリ)惨劇は“殺人強度が弱かった”としても、その残酷行為の本質、すなわち不当に追い出されなければならない、略奪された庶民との対話を一切拒否してその代わりに暴力だけに度々訴えようとする支配者の傲慢で残酷な態度は全く同じだということだ。
‘汚く’見える‘前科14犯’を‘清潔’に見える者に、流ちょうな英語で外国人投資家誘致に常に先頭に立って、これまで新自由主義的‘自由貿易’実践の先頭に立ってきたオックスフォード大京畿道(キョンギド)知事出身に置き換えたとしても、変わるのは名前(名)だけで、本質(実)ではないだろう。 したがって2012年“破邪顕正”の意味を単純に“不正な政権に対する審判”だけに限定させてはならないだろう。 あえて“破邪顕正”の本来の仏教的意で見るならば、その意味は森羅万象と仏法に対する誤った考えを捨て、正しい法観,空観を打ち立てるということだ。
すべての法がみな本質上は空であっても、五蘊仮和合として、縁起法の原則に従い同時に存在したりもし、法の真像を直視しようとするなら空に対する執着も存在の実在性に対する執着もあまねくみな捨てるべきだという話は“破邪顕正”の主要内容として含まれている。 社会的意味での“破邪顕正”ならば、何よりも社会の各種“通念”に対する反省的考察を意味する。 この考察がもし2012年に躍動的に展開する政治、社会的現実変化にしっかり適用されるならば、私たちがもしかしたら仏法の現実的目的、すなわち多くの衆生の離苦得楽に一歩でも近付けるはずだ。
私たちの頭の中に最も強く打ち込まれている観念は、何と言っても“世界は出世のための戦場”であろう。本来、仏家として入山して死ぬという意で使い続けられた“出世”という言葉であり、明治時代の日本で英語successの訳語とされ、その言葉は現代韓国語で中心的とも見える概念語の地位を占めてしまったが、仏教的表現のこのような悪用(?)を釈迦の原理を信じる者として非常に悲しいと思う。 ところで“出世”の本来の仏教的意味は現在の意味とは雲泥の差があるものの、実は伝統時代の仏教も初めから世俗で“出世した”人々との“距離を置くこと”に多くの失敗をしてきた。 穏健指向の宗教改革家だった釈迦自身にしても、財産家や国王などに対して“宿生の功徳でその位置に上がった”と判断して彼らに法布施を与える一方で、彼らからの財布施を受け取ったりしたし、自身の父親を殺すなどあらゆる凶悪を犯したアジャータシャトル(阿闍世王)のような悪徳征服君主との‘関係’さえも拒まなかった(もちろん仏教ではこれを“阿闍世王の懺悔”として描くが、歴史的に見た時に阿闍世王を含む当代のすべての摩掲陀王国の君主が‘普遍的宗教’としての釈迦の教えに深い関心を持った。 種族構成が多様な摩掲陀国の内部結束にこのような普遍的宗教が役立ったためだ)。
釈迦の態度を概ね引き継ぎ親財産家側に発展(?)させたその後の伝統仏教では、世俗的な成功を肯定する基盤の上で、財産の多い僧である檀越に布施と仏教倫理の根本綱領の形式的な肯定程度を期待してきたのだった。したがって今日のような寺刹での“合格祈祷”は現代的な怪現象であるとしても、“功徳”/”仏供”と“出世”の連結自体は残念に聞こえもするが、釈迦以後の仏教の(誤った)“伝統”に属することだ。
問題は、釈迦が発見した縁起法と空の原理を信じ、この原理で世の中を解放的に解釈してみようとする私たちは、果たして“出世”に対するこのような態度を、たとえそれが釈迦自身の階級的、現実的な限界に由来するものであるとしても、それにそのまま従えるかという部分だ。 釈迦時代においても“出世”は殺人を業とする国王や将帥になることを含む概念であったが、私たちにそれが何を意味することなのか? 私たちは大衆とそれほど関係のない衒学的な勉強で米国で“学位”を受け、国内に来て英語論文の生産能力と人脈やわいろなどにより大学で正規職教授の"位"を得て、1ヶ月に150万ウォンそこそこを受け取る時間講師を間接的に絞り取ったおかげで8千以上の年俸を受け取る“出世”の道を本当に善とみるべきだろうか?
この道を歩きながら“先進国”の学風を無条件に書き写し“本土”論文の文章までそのまま従う模倣能力と各種学界権力者/権威者との“関係管理”が上手な追従能力などをすべて育てることができたとしても、果たして執着からの自由や饒益衆生の能力を育てることができようか? うちの子が勉強ができてソウル大に行ってこういう道に進めと合格を祈願することは、果たして仏教のすべての本源的な真理に対する完全な不正に該当しないのだろうか? “専任教授”を頂点とする“出世”の道もそうだが、大韓民国を実質的に所有する大企業に身だを売って“社員”になることも、いくらでも基本的人間性まで破滅させる道でありうるということだ。
‘前科14犯’がその世界で“神話”を作るほど“出世”したことは果たして偶然か? “成功した”社員の人間像は、仏弟子の理想的人間像の正反対に近い。 追従能力と古参にうまく従う模倣能力はもちろん、管理対象者(労働者など)に無慈悲に“速度戦”をさせ、彼らの血と汗、そして労災を代価に成果を上げられる残虐性と、人を自身の“出世”のためにうまく利用する“戦略的思考”等までが要求されるという話だ。 大企業社員に古典の中では<孫子兵法>が最もよく読まれるというのは偶然だろうか? しかし、それでも例えば仁術を高い価格で売らねばならず、製薬会社などとの各種の“関係”をやむを得ず持つことになる医師は、私たちが考える“菩薩像”に近いだろうか?
社会のどの職種を見ても、徹底して不公平で搾取的な社会である大韓民国で“庶民”以上として、より高い偽計に挑戦するということは結局、仏法の原理と正反対の人間的破滅の道に入ることを意味することになる。 釈迦はいくら当代の“出世者”らと法布施-財布施交換関係を持ったとは言え、今日の大韓民国での“出世”は釈迦の根本的価値である慈悲に反することに最も容易になりやすい。 このような状況では果たして“破邪顕正”は何を意味するだろうか? 教授も社員も医師もカネの計算と計量可能な“成果”、そして追従に長けていなければならない理由は、この社会は市場的交換と資本の利潤追求を基盤とする位階秩序的ピラミッドであるためだと見なければならないだろう。 そうであれば社会的“破邪顕正”の道とは、このような社会が“出世”等の名でその中で何らかの上昇移動を企てようとする人間を徹底して破滅させるという点を十分に認識し、さらにはより市場的でなく、より平等な社会を作る道であろう。
“破邪顕正”と共に衆生の離苦得楽も饒益衆生の善業も、まさにこのような道でこそ見つけられるだろう。 私たちが2012年に韓国社会を少しでも市場的でなく、少しでも位階的でなくすることができるならば、それは社会的意味での精進であろう。しかしそのようにすることができないならば、‘前科14犯”が空ける席を誰が占めても何の違いもないだろう。力がなく“出世”のピラミッドの周辺にすら行けない人々が、大楸里(テチュリ)や龍山(ヨンサン)のように殴られ踏みにじられて無念に死ぬだけだろう。 このようなことが茶飯事となったこの社会は、仏教が言うところの無間地獄でなければ、いったい何だろうか?
原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/40411 訳J.S