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国家暴力の犠牲者‘英雄化’は また別の犠牲を要求する

原文入力:2010-05-12午後09:08:23(2298字)
5・18国立墓地と靖国神社 挑発的比較
"無謀だが…国家祭祀 類似性"
国境と境界を越えて‘光州’中心 連帯 努力 切実

チェ・ウォンヒョン記者

←高橋 哲哉 東京大教授

国家暴力を一貫して批判してきた日本の一知識人が光州抗争犠牲者が埋葬された我が国の‘国立5・18民主墓地’と、太平洋戦争戦死者が埋葬された日本の‘靖国神社’を比較する挑発的な問題提起をした。

去る2日、5・18光州抗争30周年を迎え開かれた‘韓-日シンポジウム’に参加した高橋哲哉東京大教授(哲学)は‘犠牲と追慕-限りない喪のために’という主題発表を通じ、国立5・18墓地と靖国神社を比較し、「国家が発動した暴力の結果、死ぬこととなった人々が かえって国家の‘犠牲論理’に利用される恐れがある」と主張した。日本の代表的な批判的知識人である高橋教授は、靖国神社参拝に対する集中研究を通じ日本の帝国主義と国家暴力を批判してきた。

去る2日、光州で<ハンギョレ>と会った高橋教授は「国立5・18墓地と靖国神社を比較するのは事実 無謀な試み」と言った。無謀な試みは、光州抗争に対して研究して知ることになったある事実から始まった。ソウル、顕忠園国立墓地には当時 戒厳軍として戦死した人が埋葬されているが、光州抗争の時に犠牲になった市民軍は望月洞旧墓地に埋葬されていたが、現在の国立墓地に移葬されたという事実だ。 「結果的に一国家がすべての祭祀を行っているということではないですか? この事実を知り、とても違和感を感じました。」

違和感の背景には、彼の主要主題である靖国神社がある。靖国神社は今は国立施設ではないが、軍国主義日本の中心施設だった以前と格別な差なしに相変らず日本国家主義の象徴として君臨している。特に韓半島出身者を含め246万人の英霊を抱き、帝国主義を絶えず再生産している。

高橋教授は靖国神社参拝に対する日本人の執着の中で‘崇高な犠牲’論理を読みとった。太平洋戦争の戦死者たちは、国家のために崇高な犠牲となり、それゆえに彼らに対する参拝は当然と見る論理だ。彼はそれを「国家が発動した暴力により死ぬこととなった人々を崇高に犠牲となった英雄として賛美し、他の国民も彼らの後に続くことを要求する‘犠牲論理’」と語る。すなわち、彼らの死は国家から始まったが、‘祭祀長’を引き受けた国家が崇高な犠牲として美化し、他の国民を統合し動員する政治的道具として使うということだ。また、国家はすべての国民が彼らの模範を受け、いつでも犠牲を発揮するよう要求する。したがって、国家は常に犠牲を踏み自ら誕生し維持する存在となる。

←国家暴力犠牲者‘英雄化’はまた別の犠牲を要求する

そうであれば国立5・18墓地と靖国神社とはどういう点で似ているということだろうか? 両者の差異点はあまりにも明確なので、高橋教授はこれを先に釘を刺しておく。最初に、靖国神社の死亡者たちは侵略戦争の加害者だが、国立5・18墓地の死亡者たちは民主化闘争過程の被害者だ。第二に、靖国神社は‘天皇’制のための犠牲を賛えるが、国立5・18墓地は民主主義のための犠牲を賛える。簡単には比較できない問題なので‘無謀な試み’という言葉も付け加える。

ただし、このような差異点を一旦差し置けば、‘国家暴力で亡くなった人々に対し国家が祭祀を行う’という両者の共通点が残ると高橋教授は話す。望月洞旧墓地に埋葬されていた人々が国立墓地に移ることにより、国家が‘祭祀長’を引き受けることになり、靖国神社の場合のように‘崇高な犠牲’論理が作動することになったということだ。‘崇高な犠牲が作り出した政府’、‘民主主義のために散華した英霊’等の表現に現れる犠牲論理自体には、天皇制国家と民主主義国家の間の本質的な差異は見られないという主張だ。「もちろん‘きちんと認められなければならない’という遺族たちの感情はあまりにも当然なのです。しかし犠牲論理が作動することだけは警戒しなければなければならないと考えます。」祭祀長が国家ではなく‘民衆権力’だとしても、彼の問題意識は完全には消えない。「国家暴力の死亡者たちは本来殺害されてはいけなかったわけで、彼らの死は何によっても元に戻すことはできない」ということが彼の根本的な問題意識だ。

その問題意識を更に掘り下げれば、光州抗争に対する‘博物館化’または‘剥製化’と出会うことになる。高橋教授は「光州抗争は世界帝国主義に対する抵抗の中心といえるが、国立墓地化や手続き的民主化などの成果により、その意味が浅くなって行くのではないか」憂慮した。何によっても元に戻すことはできない死である、その死を追慕する作業(喪)には終わりがない。ところが民衆自ら、その死を現実の中で記憶し再生しようとする努力を疎かにする瞬間、簡単に犠牲論理に陥る誘惑が訪れてくるということだ。
高橋教授をはじめとする70人余りの日本の知識人たちは、今回の韓-日シンポジウムに全員が私費で参加した。高橋教授は「最近、韓国と日本は共に民主主義の危機を迎えていると見られる」とし「国境と境界を越えて光州を中心に連帯しようとする努力が切実だ」と話した。

光州/文・写真 チェ・ウォンヒョン記者 circle@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/420523.html 訳J.S