本文に移動

もしも朝鮮半島にイスラエルが建国されていたなら

登録:2023-10-23 02:40 修正:2023-10-23 17:45
[ハンギョレS]ホン・ミョンギョの異床同夢 
パレスチナと私たち
2000年10月、パレスチナのガザ地区のカルニ国境検問所でパレスチナの13歳の少年がイスラエルの戦車に対抗して石を投げている。1カ月後にイスラエル軍の銃に撃たれて死亡したこの少年の父親は「息子たちを死に追いやることはできないが、アッラーの意思なら私がこれを変えることはできない」と言った/AP・聯合ニュース

 今年10月7日以降、世界中の耳目が「パレスチナ」に集まっている。現状をどうみるべきか。歴史に「もしも」はないが、それでもここでは仮想の歴史を考えてみよう。

「モシモ人」と韓民族

 今から1888年前の西暦135年、朝鮮半島にあった「モシモ王国」が外国による侵略で滅びた。そこに暮らしていた人々は新たな支配者の迫害から逃れて世界中に散っていった。彼らのことを「モシモ人たち」と呼んでおこう。モシモ人たちは独自の経典と独特の唯一神思想を持っており、自分たちのことを他の民族共同体と大別された「選ばれた民族」だと考えていた。文化・宗教的違いと卓越した金儲けの能力は、時として彼らに成功と試練を与えた。そのため、資本主義の胎動期であった19世紀に至ると、西欧の主流秩序から憎まれることもあった。19世紀後半、東アジア各国では、まさに頭をもたげはじめたばかりの排他的種族主義と共に、「モシモ人」共同体に対する反感の火が燃え広がり、残念ながらこれは20世紀最悪の民族浄化へとつながった。

イスラエルとパレスチナの占有面積の変化 //ハンギョレ新聞社

 モシモ人たちは「国を作ろう」という運動をはじめた。ウガンダの人が住まない地、中国とロシアの国境地帯など、様々な地域が有力視されたが、モシモ人の経典にも「約束の地」と記されている朝鮮半島ほど魅力的な場所はなかった。国際情勢を誰よりもよく認識し、大国のエリートたちと交渉する方法を知っていたモシモ人たちは、朝鮮半島を植民統治した日本から国を作ってもよいという承認を得て、朝鮮半島への移住をはじめた。先祖たちがその地を離れておよそ1800年ぶりに「約束の地」に帰還したのだ。

 ところが朝鮮半島には、すでに古くから住んでいる人々がいた。数千年にわたって中国大陸や近隣の島から移住してきた人々の子孫である彼らは、自らを「韓民族」と呼び、同質性を保っていた。1948年には人口の94%が「韓人」で構成されていたこの地で、6%にも満たない「モシモ人」が突如として自分たちの国を作るというのは、誰にとっても納得しがたいことだった。しかし、彼らはそれを実行した。全世界的な「モシモ人ネットワーク」と資本があったし、日本と米国の支援も力になった。国連は、朝鮮半島の56%に達する土地を6%に過ぎないモシモ人たちに与えることを決めた。植民統治の終息で解放されると信じていた「韓人たち」は突然の通報に怒った。モシモ人たちは「出て行け」と脅し、銃剣によって大災厄を引き起こした。朝鮮半島の先住民に対する民族浄化で数千人が虐殺され、530の村が破壊された。当時の半数以上に当たる人口が、住んでいた土地から強制追放された。これは韓人にとって骨の髄まで深い傷として残った。今も韓人難民は「故郷に帰る」という気持ちを抱いて生きている。一方、今日を生きるモシモ人青年たちは1948年の災厄を知らない。教科書はそのような歴史を教えておらず、関連資料も載っていないからだ。

 さらにモシモ人たちは、国連の定めた境界線すら無視して韓人の土地を占領し、1968年の戦争後には入植者の移住を放任し、あおった。彼ら入植者は非常に積極的で教条的な選民思想を持っており、一部の人々は民兵組織レベルの武力を保有していた。彼らは韓人が住んでいる慶尚道と全羅道に突如として大小の入植地を建設し、軍を動員して占領地を広げていった。これは、武力で占領した土地に占領国の民間人は定着してはならないとする国際法に違反するものだったが、モシモ人優越主義者たちは気にもとめずそれを実行した。彼らはソウルの半分を占領し、モシモ人の入植地を守る巨大な壁を作った。韓人の子どもたちは奪われた土地でパーティーをする入植者たちを憎悪し、石つぶてを投げてモシモ人の軍隊に抵抗した。その過程で数千人の韓人が命を落とした。

まず何を止めるべきか

 平和的な植民地解放運動を繰り広げてきた韓人の怒りは高まった。韓人内にも様々な政治的主張がある中で、「武装抵抗論」が力を得るようになったのはこのためだった。長きにわたって韓人を代表してきた政党は無能で、植民地支配者に協力的だった。韓人たちは、もはや愚かにやられてばかりいるわけにはいかないと考えた。2006年の総選挙で強硬派が圧勝したのには、このような背景がある。

 選挙結果が自分たちの予想を外れると、モシモ人たちと米国や日本などの大国は韓人封鎖を合理化しはじめた。モシモ人たちは韓人の密集している○○地区との境界に、高さ8メートルの壁を作った。そこに閉じ込められた数百万人の韓人は、外に出ることもできず、海すらも封鎖された。飲み水、電気、食糧など、すべてモシモ人の占領当局が割り当てた分だけが配分され、外国に出ようとしてもソウルを通らなければならなかった。韓人たちはむごたらしい差別、蔑視、人種隔離政策に苦しめられているため、日常そのものが災いだった。このような民族浄化が批判にさらされると、モシモ人たちは「反モシモ主義」だとして非難した。「約束の地」朝鮮半島にモシモ人の国を作るという一念に駆られた彼らにとって、韓人はゴキブリのように思えた。

 そんなある日、韓人独立運動勢力のある武装党派が壁を破壊し、モシモ人たちを攻撃した。それは前例のない反撃であったため、モシモ人たちと世界を驚かせた。韓人たちはモシモ人入植地に住んでいた200人あまりの民間人を拉致して人質にしたが、これは監獄に閉じ込められている6千人の韓人政治犯と交換するのが目的だった。この反撃は、民族浄化と占領は永続させうると信じていたモシモ人極右主義者に打撃を与えた。怒ったモシモ人たちは○○地区に途方もない爆撃を浴びせはじめた。同地区の人口の40%は子どもだったため、それだけ多くの子どもたちが殺害された。そして、爆撃がはじまってわずか1週間で数千人が命を落とした。

 「もしも」ではじまったこの仮定は、今日のパレスチナで起きている悲劇の隠喩だ。私たちは西欧メディアの報道を一方的に受け入れ、事案を「宗教紛争」などと誤って理解する。しかし大多数のパレスチナ民衆は世俗主義的であり、他の宗教を尊重する。この悲劇は10月7日にはじまったのではない。1948年にシオニストが一方的に建国を宣言し、先住民を追放した時、1968年に露骨な人種隔離をはじめた時に、すでにはじまっていたジェノサイド(集団虐殺)だ。

 私たちの前の世代が経験した植民地主義の歴史は、パレスチナ民衆の視点から事態をみるよう導く。しかし、なぜ私たちは帝国の視点からパレスチナ問題をみるようになったのだろうか。東アジアに住む平凡な人々の視点はどこにあるべきか。まずは壁で閉じ込められた平凡な人々に対する虐殺をやめるよう要求すべきではないだろうか。

ホン・ミョンギョ|東アジア研究活動家

「プラットフォームC」活動家。東アジアの話を書く。各社会の違いを理解し、同じ夢を目指そう(異床同夢)という意味で名付けた。理想を抱いた東アジアの夢(理想東夢)という意味も込めた。 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/arabafrica/1113041.html韓国語原文入力:2023-10-22 09:00
訳D.K

関連記事