9日午前、沖縄県国頭郡本部町健堅の駐車場で、4・9統一平和財団のアン・ギョンホ事務局長がアルミホイルに包まれていた人間の背骨を岩の上にひろげた。そして再びたたんで岩の上に載せた。背骨だけでなく米軍が使った弾頭、服やカバンを結ぶのに使われたと見られるバックルや昔の日本の硬貨もアルミホイルの上に広げ、再びたたんだ。
閑静な海辺の村にある健堅の駐車場は、太平洋戦争当時に動員された朝鮮人軍属(軍務員)2人の遺骨が埋められていると推定される場所だ。この日、韓国、沖縄、日本本土、および台湾の市民が集まって共同遺骨発掘作業を始めた。アン事務局長も発掘作業に参加した。骨や弾頭は、共同発掘作業以前の7日に行われた予備発掘の時に見つかった。背骨が出てきた場所を中心に土地を掘り起こして遺骨発掘作業を始めた。
沖縄は、太平洋戦争で日本で唯一本格的な地上戦が繰り広げられた場所で、日本軍と沖縄住民、動員された朝鮮人・台湾人など20万人余りが亡くなったと推定される。朝鮮人遺骨発掘作業の進行は珍しい例だ。
発掘作業は1945年5月に米国の雑誌「ライフ」に掲載された一枚の写真から始まった。木製の墓碑の横で米軍兵士が海を見ている写真だ。14本の墓碑のうち、2本に漢字で音読した時「クムサンマントゥ」と「ミョンチョンジャンモ」という名前が見えた。創氏改名された朝鮮人の名前と推定された。沖縄の市民運動家は、朝鮮人強制動員者の名簿に照らし合わせ、この2人が日本軍の軍属として動員されたキム・マントゥさんとミョン・ジャンモさんであることを確認した。死亡当時2人は23歳と26歳だった。日本軍の記録によれば、2人は日本軍の輸送船として徴発された船舶「彦山丸」に乗ったが、1945年1月22日、米軍機の攻撃により彦山丸で多数が死亡した。墓標の名前から確認された犠牲者14人は、彦山丸の船長と軍人、軍属だ。
7日に発掘された背骨が、当時の墓標の中の14人のものであるかは定かでない。朝鮮人の遺骨であるかも不明だ。遺骨発掘の専門家であるパク・ソンジュ忠北大学名誉教授(考古美術史学)は「骨の成熟度から見て、18~19歳未満の人の遺骨と見える」と話した。彼は「4メートルの深さから遺骨が出てきたが、ここは戦後にに土を積み上げたところだ。発掘の深さから見て、14人の遺骨ではないかもしれない」と話した。
村の人々が犠牲者を火葬して埋めたとし、具体的な位置まで特定できたことも発掘作業を実現する動力になった。ただし、出てきた骨に火葬の跡はない。発掘作業をリードしたひとりである沖本富貴子さんは「火葬したという村の住民の証言もあるが、そのまま埋めたという証言もある」として、まだ発掘された遺骨が誰の骨なのかは分かっていないと話した。身元を特定するには、鑑定可能な程度のDNAが残っていなければならない。沖本さんは「遺骨が放置されてはならない。歳月が流れ遺族のもとに帰ることが難しくとも、ひとりの人間として生きてきた尊厳が回復されなければならない」と強調した。
この日の発掘作業の開始前に慰霊式が開かれた。参加者たちは「遺骨の魂が故郷へ帰ることを願う」と話した。海の向こうには75年前の写真と同じように瀬底島が見えた。韓国の市民団体「平和の踏み石」と日本の団体である「本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」などで構成された「健堅遺骨発掘共同実行委員会」は、11日まで共同発掘作業を実施する。