日帝強制占領期(日本の植民地時代)、旧満州に渡った朝鮮人たちはどのような人生を送ったのか。
朝鮮族二世で中国竜井市の文化館長を務めたイ・グァンピョン氏(74)は、この問いの答えを探すために、10年以上写真を撮り、600人の証言を採録した。5万キロ以上の距離をバイクと自動車で移動しながら集めた写真をもとに、最近日本で『「満州」に渡った朝鮮人たちー写真でたどる記憶と痕跡』という写真集を出した。彼が採録した証言には「満州に行けば誰もが金持ちになる」という嘘に騙され、満洲に来た平凡な朝鮮人たちのエピソードが出てくる。
8日、東京都新宿区で著者に会った。彼が満州の朝鮮人をテーマに写真を撮り始めたきっかけは「集団移民」という耳慣れない単語のためだった。1999年、吉林省延辺朝鮮族自治州の汪清県のある村を訪れ、ここが朝鮮総督府の計画によって朝鮮から集団移住してきた人たちの村だという事実を知った。昔の記録を探したが、「集団移民」という単語自体がないか、あっても概略的な数ページの内容に過ぎなかった。この時、朝鮮族の生活史の空白を埋めようと決心した。
日帝は1931年の満州事変以降、傀儡国家である満州国を建て、東北抗日連軍(中国人と朝鮮人が連合した抗日武装団体)の主要な活動地域に集中的に朝鮮人の集団移民を定着させた。集団移住した朝鮮人たちは、抗日連軍に食糧を渡すと背後に押し寄せた日本軍から取り調べを受けなければならなかった。
イ氏は、朝鮮族の内部や中国で朝鮮人集団移住の歴史はちゃんと研究されていなかったと話した。「朝鮮族も歴史を研究する方々は主に抗日闘争史を研究しました。一部の中国の学者たちは、日帝が満州国を建てた後に渡ってきた朝鮮人たちを良く思わなかったのです」
彼の写真は日常的な記念写真のように見えるが、つらい移住の歴史を充分に物語っている。2003年に汪清県で撮影したソ・タグァンさんは、写真の中で畑にほとんど這いつくばっている。1937年に汪清県に移住した彼は、移住初期に土塀を築く工事に動員され、腰を痛めた。老年に入りその後遺症でほとんど這って生活しているという。2007年に4回も訪れ、やっと写真を撮った慰安婦被害者のおばあさんは「平安」と書かれた指輪をはめている。
写真集の出版に参加した在日コリアンの金富子(キム・プジャ)東京外国語大学大学院教授は、「日本で満州移民者は日本人だけだったと考える人が多い。(敗戦後)日本人が逃げてくる時に苦労したという話はよく聞く。しかし、その時代満州には日本人より朝鮮人が多かった。200万人以上だった。植民地主義の歴史であるので、韓国でもこの本が紹介されるのを期待する」と述べた。