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雑煮(トックク) 料理を独立運動のように行った時節

原文入力:2010-02-12午前08:31:40(2954字)

1926年ソウル北村一帯のソル(陰暦正月)風景

植民地の憂鬱が世の中を覆っていた当時、総督府の陽暦使用強要にも関わらず朝鮮人は依然としてソルを過ごしていた。通りにはカルビ・キジ・ミカン・蒸餠など、さまざまな歳饌(セチャン)を頭に載せたり担いだりして通う老若男女で市場ができた。北村のある雑煮屋は陰暦初日も店を開け他郷暮らしをする下宿生たちの孤独を慰めてくれたが…

ソウルが近代の風に吹かれ都市化が急速に進んでいた1926年、その年の2月14日付<東亜日報>5面には次のような記事が載せられた。

"ソウル北村の通りには数日前からカルビ,キジ,ミカン,蒸餅,その他様々な歳饌をある者は頭に乗せ、ある者は担いで通う老若男女で時期外れの市場ができる一方で、可愛い娘と幼い息子の手を握った婦女たちが、服とか履物あるいは靴屋で愛しい子供たちのソルの晴れ着準備に忙しい。"

ここで‘歳饌’というのはソルに食べるご馳走を指す。ところで羅列された歳饌の中に何故キジが入っているのだろうか?

キジ肉は朝鮮時代には牛肉より汁を作るのにはるかに多く使われた肉であった。キジを狩ることを遊びとした両班たちに労働力を提供する牛より、キジ肉は簡単に求められるという長所があった。それで肉が必要ならば鶏よりキジであったし、牛肉よりもキジ肉であった。だが食用のために牛を育て始めた20世紀に入って野生のキジ肉より牛肉が雑煮汁を作るのにさらに多く利用されるようになった。

雑煮を作るには先ず餅が必要だ。餅は本来、米粉をこねて作ったモチを何度もついて、手でタコの足のように転がして長くする。19世紀初期に出された<洌陽歲時記>ではこの餅を‘拳模’と呼び、1840年前後に書かれた<東国歳時記>では‘白餅’と呼んだ。<東国歳時記>に出てくる雑煮作りの過程は非常に詳しい。"餅を葉銭のように小切りにして醤油と混ぜて牛肉とキジ肉と粉トウガラシを混ぜて煮たものを餅湯という" と記した。ところで粉トウガラシを雑煮に入れた点は今とは異なる。恐らくキジ肉の臭いを消すために粉トウガラシが入ったのではないかと思われる。1926年正月の歳饌としてキジが登場した理由はやはり雑煮のスープを作るのに依然としてキジ肉が最高だと感じた当時のソウルの人々の好みのためだった。
歳饌として登場するカルビは、昔も今も牛肉のカルビで料理した食べ物だ。カルビは朝鮮末期でも王室で牛肉食を禁止させたので、権力者でなければ食べにくかった。だが1920年代初期になれば、今のソウル,楽園洞一帯に炭火で焼いたカルビを冷麺と共に販売する飲み屋ができていた。だがその価格が半端でなかったため、カルビは正月のような名節になってこそ一部家庭で特別な食べ物として食べられた。ミカンも朝鮮時代には宮中に進上した果物だったが、日帝強制支配期以後に済州道で改良ミカンが栽培され事情が変わった。たとえ今ほどにはありふれていなかったとしても、お金さえあればミカンの購入が可能だった。

蒸餅(スルピョン)はスルトクのことだ。別名でキジュトク,キジュビョン,ボンゴジトクなどとも呼ばれた。米粉にマッコリを入れて膨らませたスルトクは普通は真夏にならないと発酵がうまくいかないため、真冬に食べることは難しかった。ところが近代的な技術が導入され、真冬でもスルトクを作れるようになった。事実<東国歳時記>では正月の代表的な餅として小豆蒸餅を挙げている。"うるち米粉を蒸し器で蒸した中に茹でたは赤い小豆を層状に敷きつめるが米粉の厚さは蒸し器の大きさを見て決める。あるいは餅粉を層状に入れて蒸したりもする。これを甑餅と呼ぶ。これで新年に鬼神に祈ったり、元日や盆、または随時鬼神に祈る時にも差し上げる" と書いた。だが家庭で容易に作ることのできた小豆蒸し餅とは違い、そのやわらかく甘い味のおかげで1926年頃はソウル,鍾路の店で歳饌の一つとして売られていた。

たとえ植民地の憂鬱が世相を覆っていた1926年ソウルではあっても、陰暦正月を控えソウルの北村一帯は忙しい名節の様相を間違いなく示していた。大晦日までコムシン(ゴム靴)屋や反物屋の中では夜遅くまで準備に余念のない顧客を待った。だが正月初日になると鍾路の大部分の店は門を閉めた。これに比べ陽暦の正月を過ごす日本人たちがたくさん集まり住んだ今の明洞と忠武路一帯はその雰囲気が全く違っていた。“商店は店を開け、会社では事務をとり、木履を履いた学生たちが学校の時間に間に合うようひどく息を切らして駆け足をする”とある。

近代以前には日本もやはり朝鮮と同じように中国の暦である陰暦を使っていた。だが1867年に明治維新を断行し近代化プログラムの一環として西洋暦法を採用した。朝鮮総督府は公式的な暦として朝鮮人も彼らのように陽暦を使うように強要した。すでに陽暦に変わった世の中で、朝鮮に暮らしていた日本人に旧暦元旦が何の意味があっただろうか? だがソウルに留学して北村一帯で下宿をしていた朝鮮人学生たちには名節正月にも学校へ行かなければならない困憊があった。もちろん雑煮を食べようなどは想像も出来ないこと。

ところが今の北村韓屋村付近に当時、雑煮屋1ヶ所が店を開けて話題になった。前記<東亜日報>には‘地方学生ために雑煮屋は店を開ける’という題名の記事が載せられた。“元日に雑煮が売れるとは思えず、花洞のある雑煮屋主人に尋ねたところ‘ソウルに家がある人は誰が今日のような日に雑煮を食べられないでしょうか、でも今日雑煮を食べられなければ訳もなくさびしいと言う両親を離れて田舎から上がってきた学生たちの注文が非常に多いので、このように店を開けました。それもそうじゃないですか、下宿屋で雑煮まで作ってくれる家がどこにありますか’と言った。”

このように朝鮮総督府の強要にも関わらず、1926年頃にも朝鮮人は依然として旧暦元旦を祝っていた。当然ソル(陰暦正月)という言葉も新聞に堂々と登場した。しかし1930年代後半になるとソルという言葉が新聞紙上から消える。はなはだしきは雑煮を食べることは止めようというキャンペーンが広がることさえした。米の飯を食べることも難しいのに、どうして勿体なくも雑煮を食べるのかとの主張だった。これら全てが戦争に狂ってしまった日本帝国主義が作り出した結果であった。それから少なくとも1980年代初期まで、ソルは色々な理由で私たちのカレンダーに堂々と席を占めることはできなかった。自然に雑煮や蒸餅を歳饌として販売する店も今はない。その代わり祭祀の膳に山盛りの法事飲食にあらゆるまぶしい食べ物が元旦の朝の食卓を満たす。一年中、各種食べ物があふれ出るこの時代に1926年の雑煮屋でかろうじて正月料理を食べた下宿生の切なさがなつかしく思える理由は何だろうか。

チュ・ヨンハ韓国学中央研究院教授(民俗学)

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/404434.html 訳J.S