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[マガジンesc]昔の兵士たちのユンノリ場で遊んでみようか

原文入力:2009-12-02午後09:48:48
escウォーキングマップ15.忠州 旧都心と社稷山(サジクサン)
忠州官衙公園から郷校,‘若者通り’を経て社稷山まで4km

イ・ビョンハク記者

中部内陸の中心に忠州がある。中原,蕊城(イェソン)とも呼ばれる。どれも‘中’や‘心’の字が入っている。内陸の中心であり心の中心でもある。早くから陸路・水路交通の要衝地だった。三国時代以来、この地域を占めるための争いが激しかった。要衝地にふさわしく時代ごとに積もった先人たちの足跡も際立っている。忠州邑城など旧都心にも路地ごとに見どころがある。忠州官衙公園から出発し郷校と西門外‘若物通り’を経て社稷山まで歩く。

←忠州官衙の東軒である淸寧軒

忠州官衙公園は旧邑城の官衙建物がある所だ。正門の忠清監営門を入れば、牧使の執務室だった淸寧軒①が見える。なかなかにスマートに見える建物だが、細かく見れば礎石が多様で柱の太さもしっくりこない感じがする。1869年忠州牧使だった趙秉老が村城を築造したが火災で翌年に再び作った。この時、付近の寺刹,蒼龍寺から色々な木材や石材を持ってきて使ったという。蘂城文化研究会を主宰するオ・ギョンソン(58)氏が建物下の礎石一つを示した。「この紋が彫られた石は寺にあったことが確実です。官衙建物の礎石には紋はないですね。"

←忠州官衙東軒前の忠州城築城事蹟碑(1869年建立)。築城の経緯と城郭の規模,援助してくれた人々の名などが記されている。

淸寧軒の後方の塀を越えた教育庁の場所には元は大きな蓮池と天雲亭という亭子があり、その横のには客舎の建物があったという。日帝強制占領期間に日本が城郭を壊し道を作り他の建物も撤去した。淸寧軒の横には中央役人たちの宿舎として使った製錦堂が残っている。正門そばの塀の下の築城事蹟碑②は忠州城を築いた経緯を書いた碑石だ。築城事蹟碑のそばに集められた石材の中にはユンノリ板が彫られた石もある。大小の戦乱と争奪を中心に記録される歳月の一方で、笑って騒いでユッを投げていた昔の兵士たちの忙中閑が思い起こされる。これらすべてのものを見守ってきたかのような欅(樹齢 530年)ひと株が東軒の西側の塀の脇に立っている。

官衙公園正門を出て芸総会観展示室で開かれている地域文人たちの詩画展を見てヘジャングク_(解酲湯=酔い醒ましスープ)路地に行く。20~30年間、鮮血解酲湯を煮ているという食堂が4,5ヶ所ある。日帝強制占領期の繁華街である‘本町通り’と交わる角に2階建て日本式家屋(現 家具店)が残っている。煉炭暖炉が暖かい忠州で最も古い喫茶店というチャメタバン(姉妹茶房 1981年開業)を過ぎ、邑城南門の場所へ行く。

南門(鳳阿門)の痕跡は見当たらない。南門の場所付近にも2階建て日本式家屋③がある。南側の城郭は東村四つ角側につながる社稷大路だと推定される。校峴川を渡りケン峠側に歩く。校峴川の昔の名前は塩害川だ。昔ある部族国家が別の部族の攻撃を受け、脱出する時に備蓄した塩を池に捨てて埋めたという。周辺は塩害庭と呼ばれる。校峴川を渡り右側に見える余り高くない丘が萬里山(マルリサン)だ。全国各地から訪れた人々がこの山を歩いてこそ恩恵を受けられると言って一回ずつ歩いて行ったという山だ。

←忠州華僑小学校. 一時は100人に達したという華僑学生は今ではただの2人だけ。建物の壁に‘毋忘在去’(苦しかった時を忘れまいの意)文字が見える。

忠州郷校に行く道に忠州華僑小学校④がある。1950年代に建てられた華僑学校だ。30~40年前まで忠州には華僑数百世帯が食堂・反物屋などを営みながら暮らしていたという。色あせつつある学校建物の壁には‘毋忘在去’の字が鮮やかだ。齊の桓公に宰相管仲が‘昔土地を追われて苦労したことを忘れず正しい政治をせよ’と話した言葉だ。華僑として忠州で生まれ、この学校で習ったという華僑小学校教師チュ・ペファン(37)氏が親切に説明してくれた。“一時は学生数が100人を越えたといいます。今はたった2人だけです。”

パン・ギムン総長も通った
由緒深い校峴初等學校

朝鮮時代の地方教育機関である郷校⑤に行く。忠州郷校には孔子と薛聰・安珦など国内18賢の位牌を奉安している。元々は都心東北側の鷄明山(鷄足山)にあったが、壬辰倭乱の時に火災でこちらに移した。郷校そばには火災当時に飛び込み位牌を救い出した人物を賛えて建てた祠堂 護聖祠と明倫学堂がある。校峴という地名は郷校と万里山塊の終端の冶峴(鍛冶屋があった峠)から1字ずつ取ってきて作った名前だ。郷校左側の路地をすぎ、校峴初等学校側に降り立つ。校峴初等学校は113年の歴史を持つ由緒深い学校だ。パン・ギムン国連事務総長がこの学校に通った。学校そばの聖公会教会の中には倉庫もような古びた建物が一つある。十字架が一部落ちたまま古びていく昔の教会建物⑥だ。
運動場には人工芝が敷かれた学校の前をすぎるとチョンビョル路(川辺路)にぶつかる。右側の蕊城橋を渡り自由市場入り口を眺め、旧北門の場所へ歩く。自由市場は忠義市場と沙川の向い側の武学市場とに繋がっている。北門の場所⑦は日帝強制占領期間に本町通りと呼ばれた路地入り口だと推定される。忠州伝統文化会キム・インドン(56)会長は「昨年、農協新築工事中に歯科病院と農協の間で城門に使われていたと見られる漏槽(雨水受け煉瓦)が発見された」と話した。

←校峴初等学校そばの聖公会忠州教会の昔の教会建物.

第1ロータリーを渡り、中央市場の左側路地に入る。スンデ・テジモリグクパプ(腸詰・豚頭汁飯)で有名な古くからの飲食通りだ。家具店通り(旧 本町通り)から出て来て西門の外(城西洞) ‘若者通り’へ行く。ファッション店・カフェ・ファーストフード店が並んでいる繁華街だ。40年前、こちらは蚕の繭から糸を抜き取る製糸工場が多かったという。“パケツを持って蛹を買いに行けばパケツを持った人々がいつも行列をつくっていた」とキム・インドン氏が舌打ちして話した。

引越し続きで腹を立てたか? しかめっ面の狂仏

ペロ コーヒー店でマキアート一杯(1000ウォン)を買い、覆蓋された沙川公営駐車場を越え、チョンプン精米所・クェナ美容院の路地に上がる。大圓寺(テウォンサ)に宝物98号の高麗時代の鉄仏(高さ98㎝)⑧がある。四角形の顔に長く裂けた目,ゆがんだ表情をした黒い座仏像だ。最近100年間に5回もあちこち移されたので表情がゆがむほどだ。鉄仏の別称が‘狂うの狂’字を書く狂仏だが建物内に迎えれば火災が起きるという俗説が伝わっている。1915年忠州工業高校付近から郡庁に、37年には摩訶寺に、59年には大源寺(テウォンサ)で,94年忠州(チュンジュ)博物館で,97年また大圓寺(テウォンサ)に移した。忠州は昔から有名な鉄の生産地だ。丹月洞,丹湖寺と厳政面,白雲庵にも高麗時代の鉄仏がある。

社稷山裾の文化洞(旧 駅前洞)の女性会館前へ行く。社稷山は先祖が土地の神と穀物の神に祭事を上げた山だ。日帝強制占領期間までこの山の頂上に社稷壇(サジクタン)があったが、日帝はこの場所に自国の神を敬う神社を建てた。今は‘上水道排水池’として出入りが統制されている。今年のはじめ社稷山裾体育館施設工事中にかつての土城跡が発見された。オ氏は「近所に城跡(ソント)チギという地名があったことから見て、社稷山城跡が統一新羅時代にあったという鳳凰城である可能性がある」と推定した。社稷山女性会館前には社稷壇由来碑(文化洞由来碑)⑨が立てられている。排水池側にしばらく登れば、遠く日が沈む頃の風景がすばらしいという湖巌貯水池水路のある山裾を見下ろすことができる。 ここまで約4kmを歩いた。

←忠州旧都心と社稷山. (※クリックすればさらに大きく見ることができます。)

ウォーキング メッセージ

◎ソウル 江南ターミナルと東ソウルターミナルから忠州行高速バスが朝6時から20~30分間隔で運行される。1時間30分かかる。忠州共用バスターミナル(043)853-0114.

首都圏から嶺東高速道路,驪州分岐点で中部内陸高速道路に乗り、忠州出入り口から出て行く。忠州官衙公園は城内洞,忠州文化会館のそばにある。文化会館に無料駐車場がある。周辺路地の公営駐車場は30分当り300ウォン。沙川覆蓋川公営駐車場は30分に500ウォン.

◎34年伝統のオルベンイ(カワニナ)酔い醒ましスープ専門店,ウンジョン食堂(文化洞) (043)847-2820,26年伝統の平壌冷麺を商う城西洞のサムジョン麺屋(043)847-4882,30年伝統の定食(汁なしで混ぜる白飯)と生鱈チゲを商う姉妹家(043)847-0490.文人たちが集まる市庁前‘幸せなうどん屋’は12月22日まで休業.

蕊城文化研究会(043)854-7895,忠州伝統文化会(043)857-7644.

忠州=文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/391133.html 訳J.S