原文入力:2009-11-02午後09:44:59
朝鮮墓 5千基余り発掘
ソウル歴史博物館で展示
キム・ギョンウク記者
←恩平ニュータウン地域で発掘された墓群。人骨,冥器(葬儀を行う時、死者と共に埋めた器),ガラス玉(上から時計方向に). ソウル市提供
ソウル,恩平区は北漢山西側裾に抱かれている地域だ。朝鮮時代、開京(開城)から漢陽(ソウル)に入る境界であり、都城と西北地方とを結ぶ西北大路の出発点であり交通の要所だった。朝鮮初代王の太祖3年(1394年)ソウルを5部(東,西,南,北,中) 52坊(訳注:現在の洞に類する区分)に改編した時、北部の外側に位置した延恩坊と常平坊地域が現在の恩平区だ。恩平という名前はこの延'恩'坊と常'平'坊の2つの地名から出た。
韓-日併合後、漢城府が京城府に変わり、延恩坊,常平坊が恩平面に変わり、この一帯は京畿道高陽郡に含まれた。恩平面は解放後の1949年、ソウル市,西大門区に編入され、それから30年が過ぎた1979年に西大門区から恩平区に分かれ今日に至った。
朝鮮時代<経国大典>には都城から10里(城底十里)には墓を作ることができないようにする‘禁葬・禁松’規定があった。この規定は朝鮮末期まで続いた。現在の津寛洞の津寛内・外洞はこの禁葬地域のすぐ外側だった。毋岳峴と礡石峴などが内側に食い込んで埋葬地として脚光を浴びた。
恩平区,津寛洞,旧把撥洞(クパバルドン)一帯はイ・ミョンバク大統領がソウル市長だった2002年にニュータウン地区に指定された後、2005年から去る7月まで発掘調査が行われた。ソウル地域で行われた最大規模の発掘調査であった。朝鮮時代から近代に達する墓5000余基と統一新羅時代10大華嚴寺刹に指折り数えられた靑潭寺建物址が発見された。粉青沙器魚文梅瓶,白磁冥器セット,銅銭,銅鏡,玉,耳飾りなど8000点余りの遺物も出土した。
これを土台にした特別な展示会が開かれる。ソウル歴史博物館は発掘調査で得た遺跡と遺物を活用し朝鮮時代のソウル人たちの葬儀と風俗を見せる‘恩平発掘,その特別な話展’を3日から12月13日まで行うと2日明らかにした。
展示は5つの広場で行われる。最初の広場の‘昔の恩平に向かう’では恩平の歴史とこちらに墓が多い理由を調べ、二番目広場の‘過去のソウル人に会う’では発掘調査から出た碑石を通じて墓の主人公が誰なのか、当時のソウル人らが病んだ病気は何かを追跡してみる。パク・サンビン ソウル歴史博物館調査研究科長は「墓から出土した人骨を分析してみると、脊椎二分症,頭骨骨腫瘍,骨折,骨粗しょう症,脊椎後湾症,退行性関節炎など多様な事例が発見された」と話した。三番目広場の‘礼法と風習を見て回る’では死から埋葬場までの過程と朝鮮時代喪葬礼を調べ、四番目広場‘発掘現場を訪ねる’と五番目広場‘その他の遺跡たち’では寺の跡地,窯の焼き跡と各種遺物や模型に出会うことができる。
キム・ギョンウク記者dash@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/385513.html 訳J.S