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史官 ‘沈煥之, 正祖 毒殺疑惑 御医 保護した’ 記録

原文入力:2009-07-15午後03:36:33
[イ・ドギル主流歴史学界を撃つ]⑩正祖毒殺説 真実と偽り

←京畿道華城市安寧洞にある正祖と孝懿王后金氏の健陵だ。西側に父親思悼世子(莊祖)と恵慶宮洪氏の隆陵がある。改革君主正祖の急逝は朝鮮を正常国家にしようとした最後の王の死でもあった。

朝鮮末期には毒殺説を囁かれる国王が少なくない。ここには一定の構造的問題がある。王は弱く臣下は強い‘君弱臣強’の政治構造だ。この構造に注目したのは清の康熙帝であった。彼は孝宗に続き齢34の顯宗が死亡するとすぐに「王の寿命は長くない」,「臣下の制裁を受けて政治を広げることができない」などの話をしたと伝えられる。粛宗12年(1686)閏4月には「朝鮮は王が弱く臣下が強いので我が朝廷(清)の保護がなければ何回王位を盗まれるか分からない」と話すこともした。

手紙をやりとりするほど親しかったので毒殺しなかった?
朴正熙を暗殺したのは側近キム・ジェギュ部長
沈煥之, 死んだ正祖の政策・人物ら抹殺
本当に親しかったならば、何故そこまでしたのか

国王毒殺説は国王の人為的除去により生じうる権力空白を、自党の利益に転換させる力を持った巨大政党の存在が基本条件だ。従って国王が巨大与党である西人・老論と葛藤の最中で急逝し、これら政党が権力を一人占めするパターンが繰り返される。筆者の<朝鮮王毒殺事件>は朝鮮王朝のこういう権力構造を追跡したものだ。現在、私たちの社会の一部勢力には朝鮮末期の老論権力構造が一定部分反映されている。その一例が2009年5月、正祖が老論僻派の領袖である沈煥之に送った御札が公開され発生した騒動だ。御札を公開した学者らは異口同音に‘正祖と沈煥之の仲が良かったために正祖は毒殺されたのではなかった’と主張した。思悼世子を殺したことを正当とする老論僻派の党論(壬午義理)が維持されている限り、両者の和解は不可能だという本質的構造は無視し手紙という現象だけを拡大解釈したのだ。これらはこういう見地から‘正祖毒殺説は田舎ででも広まった昔話’だとか、正祖の死亡一ヶ月前の‘五晦筵敎’が老論僻派を重用しようとする意思だったとか、恵慶宮洪氏の<閑中録>に毒殺説が出てこないことが毒殺説虚構の証拠という世にも珍しい主張まで出てきた。御札の性格について多様な見解で接近しなければならない学者たちが異口同音に正祖毒殺説を否認する決定的史料だという単一主張を展開したのだ。

この間、韓国史で正祖は存在自体がなかった。正祖は‘英・正祖時代’という枠組みで括られ英祖の付属王のように纏めて扱われた。しかし最近になって正祖の真の姿が集中照明され雰囲気が変わった。正祖は英祖の付属王などではなく、英祖より根本的な改革を追求した君主として新しく照明されたのだ。それと同時に、正祖改革政治の足首を掴み正祖を毒殺したのが老論だという思考が形成された。すると正祖御札を老論僻派を擁護する史料として使ったのだ。先ず2人が手紙をやりとりするほど親しかったので毒殺したわけがないという主張については、朴正熙前大統領を暗殺した人物が中央情報部長金載圭だったという事例を挙げることで充分だろう。正祖が在位24年(1800) 6月15日に沈煥之に送った手紙で臥病の事実を伝えたのが遺言だという主張もあった。<正祖実録>は一日前の6月14日、正祖の診察記録を伝えており、すでに公開された病状であることを語っている。しかも正祖の病因‘腹中の火気’は3年前の正祖21年(1797) 1月、司憲府家の李明淵が‘近ごろ聖上(王)におかれては胸の間にこみあげる気がある’と話したように長年の持病だった。これが遺書ならば、正祖は遥か昔にあの世に行くべきであった。正祖毒殺説が田舎だけで広まった昔話という主張はどうなのか? 正祖が急逝するや一番最初に問題を提起したのは正祖の最高エリートだった三司だった。正祖死亡と同時に貞純王后と沈煥之の老論僻派が政権を占めた状況で大司諌の兪漢寧は純祖即位年7月13日貞純王后と沈煥之が保護した御医シムインを凶賊と名指しして攻撃した。御医シムイン庇護に対する非難が沸き立つや貞純王后は7月20日「人心の怒りは防ぎにくく世情がますます激烈になると従わなければならない」という命令を下して8月10日死刑に処した。問題は尋問要請を拒否して死刑にすることにより、その真相までが埋もれたという点だ。

←‘正祖還御行列図’(部分)。正祖は思悼世子の墓を華城の顯隆園に儀仗兵としばしば参り親孝行を誇示し老論の牽制で落ちた王室の威厳を誇示する手段として使った。

御医は沈煥之の指揮を受けた親族

シムインの死刑を記録した<純祖実録>の史官は「大臣 沈煥之はシムインの遠い親族であったため当初は保護しようとした」として、御医を指揮する內醫院提調 沈煥之がシムインの背後だという事実を明らかにした。ソウルは静寂だったという主張は頭の中の幻想に過ぎない。正祖と沈煥之が手紙をやりとりするほど近かったので毒殺したわけがないという仮設が成立するためには、老論僻派と沈煥之は正祖死後にも正祖の政治路線を維持しようと努力するべきだった。しかし正祖が死亡するやいなや、沈煥之は正祖24年の治世を全て否認した。正祖を土に埋めて帰ってきた翌日の11月18日から老論僻派の攻撃が始まり翌年まで続くが、沈煥之の‘卒記’は「庚申年(純祖即位年)・辛酉年(純祖1年)の間に首を切って陵遅処斬し流罪に処する多くの大刑罰で沈煥之が決めないものはなかった」(<純祖実録> 2年10月18日)と伝えている。この時に死刑となった李家煥,李承薰,權哲身,丁若鍾などと流刑にされた丁若鏞兄弟などは大部分、正祖が大切にした人材だった。こうして老論の一党独裁が再演され、性理学以外の全ての思想は厳禁された。老論僻派から時派に政権が移る純祖6年(1806)の丙寅更化の時、正祖毒殺説が僻派攻撃の材料に使われなかったという主張だけが辛うじて正祖毒殺説を否認するもっともらしい学問的根拠であった。しかし、これは基礎史料である実録さえまともに検討しなかった怠慢な主張に過ぎない。純祖6年(1806) 3月、司諌院正言,パク・ヨンジェは老論僻派,金達淳の巣窟が沈煥之だとしながら「逆賊シムインを推薦し(御医に)進出させたのが(沈煥之の)最初の罪」と攻撃した。正祖毒殺の背後が沈煥之という公開的暴露に相違ない。パク・ヨンジェはまた‘沈煥之が壯勇營を廃止し血党らを指揮し先王の遺言を直した’と攻撃した。正祖が在位17年(1793)一つの軍営として独立させた壯勇營を沈煥之は純祖2年(1802)に廃止した。正祖のような国王が復活することが恐ろしかったのだ。純祖はパク・ヨンジェも流罪に処したが金達淳は死刑に処し、すでに死んだ沈煥之も官爵を追奪し子供らは島流しにした。

老論一党独裁 再演…思想統制

純祖6年(1806) 4月1日三司は「(沈煥之が)先祖(正祖)の極めて大きな恩恵を受けた人として先王が仙郷(冥土)に遠く離れられた当日に先王の恩義に背いて先王を裏切った」と批判した。沈煥之が正祖のすべての政策をひっくり返した主役だという事実は朝鮮末期史認識の基本常識だ。五晦筵敎が老論僻派を重用しようとする意であったという主張を見よう。正祖は五晦筵敎で「某年の義理を犯したこと」を叱責したが、某年は老論僻派が思悼世子を殺した年だ。正祖はこの筵敎で乙未年(英祖51)老論僻派で自身の代理聽政に反対したことと丙申年(正祖即位年)に自身の即位に反対したこと、そして丁酉年(正祖1)自身を暗殺しようと刺客を送った事実を批判した。正祖はその一方で、反省すれば老論僻派を追い出さないという意思を表明した。五晦筵敎が老論僻派を重用しようとする意だという主張は、維新時期の緊急措置が民主化のための措置だったという解釈と同じだ。五晦筵敎は反対に南人重用の意だった。丁若鏞の行状である<俟菴先生年譜>は正祖が6月12日夜、丁若鏞に奎章閣(朝鮮王の文書保管庫)の衙前を送り「晦日頃になれば朝廷に入ってきて經筵に出てくることができるだろう」と話したと伝えている。五晦筵敎が南人登用の意だという証拠だ。奎章閣衙前は正祖の「顔色と語調が皆平安だった」と話したが、これは正祖がその月の末に亡くなるなどとは全く予想しなかったという意味だ。正祖が6月28日亡くなるや、丁若鏞は「時相(沈煥之)が逆医シムインを推挙し毒薬をもらせた」という‘古今島張氏女に対する記事’を残した。<閑中録>に毒殺説が言及されなかったという主張を見よう。恵慶宮洪氏が<閑中録>を書いた目的は思悼世子殺しに加担したという理由で正祖即位初没落した実家の無実の罪を晴らすためのものだった。こういう目的で書く本に先王毒殺説を記載し、焦点を曇らせる程に恵慶宮洪氏の政治感覚は鈍くなかった。また朝鮮には反坐律があった。人を攻撃した内容が無実であることが明らかになれば、その罪を代わりに受けるということだ。相手を死罪で攻撃して無辜と明らかになれば自身が死刑にならなければならなかった。先王毒殺は三族(父子孫)が滅ぶに値する重罪であり物証なしで主張できる内容ではない。 沈煥之の卒記は「垂簾聴政初期に領議政に特配され国の政権を全面的に委任されたが生まれつき鈍く才能がなく何の功績もなくひたすら同じ党は登用し他の党は攻撃すること(党同伐異)をこととした」(<純祖実録> 2年10月18日)と非難している。こういう沈煥之が21世紀に突然正祖の親しい知遇として登場するとは沈煥之も思わなかっただろう。正祖御札を巡る騒動は朝鮮末期の誤った権力構造の一部が現在まで続いて現れる私たちの社会の病んだ現住所をもの語ってくれる。正常に思考するならば、正祖御札は沈煥之が既に知らされていた以上に正祖の死により深々と関連していたという証拠としなければならない。いつまで私たちの社会は200年前の老論の党心をもって歴史を眺める彼らに振り回されなければならないのか。

ハンガラム歴史文化研究所長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/365920.html 訳J.S