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[朴露子ハンギョレブログより] 特権的知識人の責任遺棄

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/51843

原文入力:2012/08/31 08:55(3188字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 私は今このポストを、再び10キロ以上の上空で書いています。学会と講演の件でもう一度ノルウェーを暫し離れることになったのです。パソコンのバッテリーがまもなく切れるので、とりあえず「飛行する監獄」で私の頭に浮かんだ最も重要なことを簡単にまとめたいと思います。

 「飛行する監獄」で長時間座っているのは身体的に苦痛ですが、私にとても役に立ったのははオスロ空港で運良く買ったノーム・チョムスキー先生の『帝国的な野望(Imperial Ambitions)』という本でした。この本はイラク侵略直後に成されたチョムスキーとの一連の問答・対談で構成されていますが、私はその中から極めて重要な部分を一つ読み取ることができました。「責任の倫理」を論ずるチョムスキーは、責任は特権に正比例すると言い切っています。「特権」ということがここでは広義に使われているわけです。教育や社会的位置なども「特権」ですが、たとえば、ある発言や非暴力的な政治的行為をしでかしても、監獄や拷問室に入れられずに済む所に住んでいられるのも一種の「特権」なのです。かなりの人類は表現や政治的行為の自由が抑制されている政治体に生きているからです。まあ、敢えて「上」からの圧迫がなくても、「生活」に忙しい地球人の絶対多数は実生活と直接関係がない限り、「政治」などを考える暇などあろうはずがありません。そんな余裕を持つということも一つの「特権」なのです。分かりやすく言えば、長時間高強度労働でいつ重病にかかり障害者になるか分からない製造業の下請企業の労働者が、横で働いている朝鮮族の同僚に暴言を浴びせながら「朝鮮族が私たちの働き口を脅かしている」と放言しまくったら、彼は確かに加害者になりますが、韓国の移民者政策が犯罪的で国内のメディアによる中国ないし中国朝鮮族関連の報道が極めて惑世誣民的な中傷に近いということを指摘しない、言い換えれば権力批判という知識人の固有の任務を遺棄したSKY(訳注:韓国3大名門 ソウル大・高麗大・延世大)の教授たちは、その労働者より百倍も千倍も重い責任を負っているのです。彼らは国家の移民政策やメディアによる移民者関連の報道の犯罪性を十分認知し体系的に批判できる位置にあるからです。

 朝鮮族たちに暴言を浴びせ誹謗をした労働者が幸い朝鮮族の同僚と親しくなれば、その言行がいかに間違っていたかに気付き、もしかしたら悔い改めることができるかもしれません。人間は他人を苦しめ差別するためこの世に生まれてくるわけではないからです。いくら官辺のプロパガンダが主導する、狂った社会に暮らしていようとも、人間はそれでも人間なのです。被差別、被抑圧の被害者たちの人間性が自分とまったく同じだということが分かりさえすれば、彼らと偏見と国境を越えて、いくらでも連帯することができるのが人間です。私たちは学校で学んでいないから知らないだけですが、植民地朝鮮の急進的(主に共産主義的)労働運動に係わり植民地の警察につかまって投獄された在朝日本人は十数人もいました。闘いの過程において「現場」ではもしかすると「植民者」と「被植民者」の間の壁は崩れることもありえたわけです。ところが、差別という犯罪を自分でも気が付かずに犯してしまった労働者はもしかしたら悔い改めることができても、社会的な批判の義務を遺棄した、すなわち自分の責任を遺棄した特権的な知識人は絶対懺悔しないのです。特権的な知識人(たとえば「名門大学」の教授)を生み出すメカニズムそのものが「責任の倫理」を源泉封鎖し、始めから殺してしまうからです。実は「責任の倫理」意識の強い人が特権的な知識人になる可能性がほとんどない点にしてからが問題です。そしてその世界に既に入ってしまった人なら、「責任の倫理」を追求する確率は極めて低いのです。

 手工業と異なり現代の工業において一個人のみが生産の単位になることはありえないため、生産職の労働者たちはとても連帯しやすいです。共に働きながら一つの生産単位になることにある程度慣れているからです。農民たちには「村」が存在し、自営業者たちには、常連になってもらわなければ生き残れない「町」が存在します。労働者たちの間でも自営業者たちの間でも弱者(非正規労働者、フリータなど)に対する搾取と排除などといった多様な問題が発生することもありえますが、とにかく彼らの間に過度な自己中心主義は発展しにくいでしょう。知識人の世界とは雲泥の差があります。特に人文学や社会科学では(論文と学術著書の)生産単位は個人です。その原子化された個々人たちには出身大学のような「派閥」もありますが、その派閥の中では万人は競争者もしくは「目上の人」なのです。正確にいえば、同輩や後輩、先輩たちと競争しながら「大物」たちの目に留まらなければ、特権的な知識人になる最小限の可能性さえも見えてはこないでしょう。しかし、その可能性が開けば、すなわち幸い大学で専任職を手に入れれば、それは競争の終りではなく、より過酷な競争の始まりです。今度は昇進の審査で脱落しないために、アメリカの有名学術誌に論文を提出するという、全世界の同業者たちとのもう一つの無限な競争に突入しなければなりません。その渦中では本人と直接には無縁の国の犯罪的な移民政策を考えたりする余裕などありうるでしょうか。「責任」は他者に対する積極的な認識を前提としますが、「競争」に埋沒している我国の知識業者たちには競争の単位である「自分」と直系家族、それから何人かの忠実な子分以外には関心がないでしょう。「競争」の世界では「他者」の立ち入る場はないのです。

 チョムスキーは米帝のグローバルな蛮行に対するアメリカの特権的な知識人、すなわち自分の仲間たちの沈黙を嘆いているのですが、特権の程度なら東方礼儀之国の「教授」たちはチョムスキーのアメリカの同僚より何倍も上です。特講はもちろん、学会の発表や司会、討論にさえもお金が支給され、「外国の学術誌に論文を掲載することで学生たちから掠奪した数千万ウォンのお金が「教授」の懐に入る、こんな国は一体世の中のどこにあるでしょうか。ところが、面白いことに、最近たとえばプロテスタントの一部の牧師たちによる教会世襲や売買、権威主義、精神病的な極右主義などが俎上に上り、「反プロテスタントの気流」のような現象まで見受けられますが、特権のみならず無責任が絶対的な大学の教授社会は相変らずほとんど「聖域」に近いです。たとえば、財閥たちとほとんど同じです。大韓民国という搾取工場の運営に教授集団という「ブレーン」がそれだけ重要な役割を果たしているということです。実際、韓国ほどに「官学癒着」が甚だしい国の教授たちとしては権力批判を急進的に行うことはあくまでも「自己批判」することと同じです。しかし、自分自身を批判的な分析の俎上に載せたルソーやトルストイのような知的勇気を彼らに期待することは大変難しいのです。

 これを書いてからしばらく考えてみたら、私も韓国の教授集団を批判しようとすれば、結局は「自己批判」から始めなければなりません。世界のどこでも見出しにくい「報告料の出る学術会議」に私も15年間数え切れないほど参加してきたからです。今パソコンのバッテリーとともに私の力も消えかかっていますが、いつか別のポストでこの辺のことについて詳細に述べたいと思います。

原文: 訳J.S