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サハリンから平壌を経てソウルへ…80年ぶりの帰還【寄稿】

登録:2025-08-07 06:53 修正:2025-08-07 08:16
「2021年度サハリン同胞永住帰国歓迎式典」が2021年11月、仁川国際空港入国場で開かれている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

  先日、大韓赤十字社に1本の電話がかかってきた。自分を脱北者だと紹介した女性は、ソウルにいるかもしれない「父方のおば」を探したいと言った。女性の話の中で、彼女が生まれ育ったところは北朝鮮だが、ルーツは遠く離れたサハリンにあることが分かった。

 日帝強占期(日本の植民地時代)だった1939年、彼女のおばと父親は国家総動員令によってサハリンに強制的に移住させられた。このように強制的に動員された朝鮮人だけで16万人と推定される。サハリンの酷寒と重労働は数多くの朝鮮人を死に追いやった。極限の一日が続いたある日、解放が訪れたが、彼らは依然として祖国に帰ることができなかった。敗戦した日本は朝鮮人の帰還に対する責任を果たさず、ソ連は朝鮮人たちを抑留しようとした。追い打ちをかけるように、解放された祖国は分断の道に入り、まもなく戦争が起きた。混乱の時期、約2万3千人の朝鮮人が自分の意志とは関係なくサハリンに取り残された。

 一方、1950年代末、北朝鮮は労働力確保のためにサハリンの朝鮮人の北朝鮮国籍取得に積極的に乗り出した。サハリンの朝鮮人の大半は南が故郷だったが、相当数が北朝鮮国籍を選択し、彼らの一部は北朝鮮に戻った。彼女の父親もその一人だった。彼女の家族はそのように北朝鮮に定着し、娘は大人になってからその地を離れた。脱北だった。

 彼女は、脱北後に大韓赤十字社のサハリン同胞永住帰国事業の話を聞いて電話した、と言った。私たちは1992年から蓄積されたサハリン同胞帰国者5600人余りの記録を一つ一つ確認し、現地のサハリン韓人協会にも助けを求めた。ついに彼女のおばの所在を確認することができた。かなり以前にサハリンから帰国して韓国に定着していた。私たちはすぐに彼女のおばに連絡し、姪の消息を伝えた。父親が一生想い続けた家族が、娘を通じて再び繋がれた瞬間だった。

 大韓赤十字社は、国際赤十字運動の構成員として長い間、家族をつなぐ事業を進めてきた。いわゆる離散家族探し活動(RFL、Restoring Family Links)は、国際赤十字運動が世界を舞台に遂行する人道主義活動で、戦争や災害、強制移住などで散らばった家族の連絡と再会を助ける活動だ。韓国では「南北離散家族探し」としてのみ知られているが、脱北民、サハリン同胞、在外同胞など様々な離散の形を包括する国際赤十字運動の固有の活動の一つだ。

 筆者はこれまで様々な家族の再会を取り持ってきたが、今回の出会いは数多くの再会の中でも特に胸が痛んだ。ある家族の再会の中で、日帝強占期の強制移住、光復、分断された祖国と冷戦という時代的悲劇が幾重にも重なっていたからだ。その悲劇を乗り越えた帰還の道のりは、80年前に朝鮮半島の外にある凍土から始まり、北朝鮮というもう一つの境界を通り、今日ソウルに至った。

 しかし、この劇的な再会がすべての人に許されるわけではない。サハリン同胞永住帰国事業は1992年に始まり、2020年に特別法制定を通じて帰国および定着を支援する法的基盤が作られた。昨年は、法改正で帰国できる同伴家族の範囲をすべての子どもとその配偶者にまで拡大し、同胞社会の要求に一部応えた。しかし現在、永住帰国支援は依然としてサハリン同胞1世の生存者の家族に限られており、すでに死亡した1世の子ども世代は同じ歴史的犠牲者であるにもかかわらず支援を受けられずにいる。これに対し、1世の死亡者の家族も支援対象に含めてほしいという同胞社会の要求を受け、共に民主党のヤン・ムンソク議員が5月に特別法改正案を代表発議した。

 このようにまだ終わっていない課題を前にして、韓国は光復80年を迎える。80年という時間で、光復は誰かにとっては回復だったが、誰かにとっては苦しみの猶予だった。大韓赤十字社は今日も、彼らの苦しみを和らげるため、目に見えない努力を続けている。離れ離れになった家族をつなぎ、サハリン同胞がこの地で尊厳ある生を終えることができるように助けること、そのことを通じて大韓赤十字社はこの80年間、終わらない解放が残した課題に応え続けながら、真の解放の意味に向かって進んでいる。

//ハンギョレ新聞社
チョン・ジェウン|大韓赤十字社原爆被害者・サハリン同胞支援本部チーム長、北朝鮮学博士 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/1211962.html韓国語原文入力:2025-08-06 18:53
訳H.J

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