「別の場所に(遺体を)埋葬する時間はない。韓国軍が戻ってくる可能性もあるので、村の人たちが早く埋葬した方がいいと言った」
1966年12月にビンホア・アンフオック村のジョンヌン(森に入る前にある峠)であった「ビンホア虐殺」で祖母、母、姉、兄を失ったグエン・ティ・バンさん(58)は、亡くなった家族を今も虐殺現場に埋めたままにしている。村の人たちは韓国軍がすぐに戻ってくることを恐れたため遺体をきちんと収拾できず、その場に埋めた。そして60年近い時間が流れた。
何家族かは墓を移した。しかし、ほとんどはひとまとめに遺体が埋められたため、その遺体が自分の家族なのかどうか識別が難しく、移葬は不可能だった。グエン・ティ・バンさんも同じ理由で移葬できていない。
ビンホアジョンヌンだけで61人の村人が殺された。虐殺当時2歳だったグエン・ティ・バンさんは足を銃で撃たれたが、家族で唯一生き残った。ジョンヌンには犠牲者の魂を追悼する慰霊碑が建てられた。その慰霊碑の後方にはグエン・ティ・バンさんの家族をはじめ、犠牲になった村人たちの墓がある。ビンホアの7つの慰霊碑のうち、共同墓地がある慰霊碑はこれが唯一だ。先月3日にハンギョレが訪ねたジョンヌンの慰霊碑の現場には数十基の墓が並んでいた。丘の上にあるこの共同墓地の周辺は、草が大人の腰ほどにまで伸びていた。風が草を揺らす音が聞こえた。
近寄らなければ共同墓地なのかどうかもほとんど見分けがつかなかった。ある墓碑には家族の名が刻まれていたが、墓碑さえない墓も多かった。茂みをかき分けると、韓国軍の虐殺を証明するかのように「南朝鮮軍(Nam Trieu Tinh)」とはっきり記されている墓碑が見えた。
ジョンヌン虐殺は「住民証」を所持している人々が標的となったという点で、他の虐殺とは異なる。当時、韓国軍は民間人と革命軍(ベトコン)が混ざっている可能性があると考え、村の住民にベトコンではないことを立証させた後、住民証を発給した。そして住民証を所持している人のみを村に居住させたが、ジョンヌン虐殺はこのような住民に対して行われた。韓国軍は「住民証を持っている人だけが集まれ」と言い、彼らに銃撃を加えた。ベトコンではないと識別しておきながら殺したわけだ。韓国軍がなぜそのような選択をしたのか、村人たちは知らない。
グエン・ティ・バンさんの叔母は住民証を所持していなかったため村に入れず、そのおかげで生き残った。グエン・ティ・バンさんは死んだ母親の乳をくわえているところを発見された。叔母はグエン・ティ・バンさんに治療を受けさせるために別の韓国軍部隊の駐屯地に移動した。怖くて「ジョンヌン」から来たとは言えなかった。簡単な治療を受け、グエン・ティ・バンさんは米軍の駐屯地に移された。
治療を終えてビンホアに戻り、そして村を離れた。家も家族もなかったからだ。「幼い頃からずっと私は病弱だった。叔母はそんな私を養うために何でもした。ベトナムが解放されるまでそうだった」。グエン・ティ・バンさんは後になって叔母から虐殺当時の話を聞いた。グエン・ティ・バンさんは今も足を貫いた弾丸の痛みに苦しんでいる。