<朝鮮戦争休戦協定(7月27日)と韓米相互防衛条約(10月1日)が結ばれて今年で70年になる。「休戦」は戦争がしばらく止まった状態であり、戦争が終わったわけではない。休戦後、北朝鮮の再侵攻に備え強力な軍事同盟を求めた韓国の要求で、韓米相互防衛条約が結ばれた。休戦70年を迎え、江原道洪川(ホンチョン)の朝鮮戦争戦死者遺骨発掘現場と、緊張感の漂う華川(ファチョン)の第7師団非武装地帯(DMZ)を訪れた。いまも全国各地の丘や高地には10万体を超える戦死者の遺骨が雪雨にさらされ、埋まっている。この遺骨が家族の元に戻るまでは、朝鮮戦争は「終わらない戦争」だ。
70年同盟の現状を確認するために、韓米同盟の象徴とされる京畿道平沢(ピョンテク)の在韓米軍基地(キャンプ・ハンフリーズ)を訪れた。単一基地としては世界最大規模だというキャンプ・ハンフリーズは、端が見えないほど大きかった。名実共に、対中国けん制の前哨基地として十分な規模に見えた。米軍基地が引き上げたソウル市龍山(ヨンサン)と、米軍が集まった平沢で、70年を迎えた韓米同盟はそれ自体が目的なのか、韓国の国益のための手段なのかを考えてみた。(編集者)>
「訓練をしてご飯を食べに行く時、バスに乗らなければならないということ以外は軍生活に満足しています」
9日午後3時、京畿道平沢市(ピョンテクシ)のキャンプ・ハンフリーズ米軍基地にある体育施設で勤務を終えて運動をしていたKATUSA(在韓米軍に配属された韓国軍将兵)のリュ・ホジョンさん(20)は、運動中に息を切らしながらこのように語った。この日訪れたハンフリーズ米軍基地は、リュさんの言葉通り、バスに乗らなければ到底歩き回ることができないほど広大な規模だった。キャンプ・ハンフリーズは汝矣島(ヨイド)の5倍、板橋(パンギョ)新都市の1.6倍の面積である14.67平方キロメートルで、米軍や軍務員などの従事者と家族を平時4万3千人まで収容している。
米軍基地だと思って入ってきたのに、売店やショッピングモール、美容室、ネイルサロン、学校、図書館、病院などが相次いで目に飛び込んできた。道路標識もメートル法ではなくヤードポンド法に基づきマイルで表記されていた。平日の早めの午後だったが、体育館の隣にある芝生では10人余りの部隊員と家族がバーベキューやキャッチボールを楽しんでいた。宿舎も兵士や将校などによって分かれているが、きれいなマンション型だ。米国の都市をそのまま移したような姿だ。韓米駐屯軍地位協定(SOFA)により、ここでは国内法ではなく米国法が適用され、在韓米軍は基地の外でも事実上治外法権的地位が認められている。
現在、キャンプ・ハンフリーズは米軍の世界最大の海外基地だ。国連軍司令部、在韓米軍司令部、在韓米特殊戦司令部、米8軍、第2歩兵師団司令部が駐屯している在韓米軍の中核基地であり、1953年10月1日に調印された韓米相互防衛条約で結ばれた韓米同盟を象徴する地域だ。いくつかの在韓米軍基地の一つだったキャンプ・ハンフリーズは、韓国と米国が2004年、龍山(ヨンサン)基地移転協定(YRP)と、京畿道議政府(ウィジョンブ)および東豆川(トンドゥチョン)の米2師団などを平沢に移す連合土地管理計画改正協定(LPP)を締結し、規模が大きくなった。 その後、全国各地の米軍基地がキャンプ・ハンフリーズに統合され、在韓米軍の「龍山時代」が幕を下ろし、「平沢時代」が始まった。キャンプ・ハンフリーズは中国に最も近い米軍基地で、平沢港、平沢烏山(オサン)米空軍基地とともに中国をけん制する米軍の北東アジア軍事ハブの役割を果たしている。
ハンフリーズ基地のセス・グレイブス司令官は、ハンギョレとのインタビューで「韓国政府の要請により平沢に多数の米軍を移して統合し、そのためハンフリーズは2千エーカー以上拡大して大きさが3倍に大きくなった」とし、「昨年、韓米連合司令部が移転したことで、2004年から始まった龍山移転計画の最終段階に入った」と述べた。
広々としたキャンプ・ハンフリーズの敷地には、大秋里(テチュリ)の住民たちの苦しみもしみ込んでいる。キャンプ・ハンフリーズを既存の敷地から西北に10平方キロメートル広げたことで、住み慣れた生活の基盤を離れなければならなかった彭城邑(ペンソンウプ)大秋里の住民たちは強く抵抗した。2006年5月4日、住民たちが集まった桂城小学校の大秋分校に警察が押し寄せ、210人が負傷し、524人が連行された。
取材を終えて帰る途中、目に入ったハンフリーズ基地の滑走路では、攻撃用ヘリコプターのアパッチが離着陸していた。滑走路の向こう側の将兵宿舎と公園で子どもたちが走り回るなど、平沢基地は兵器と日常が入り混じった奇妙な姿だった。2万8500人の兵力と先端兵器で武装し要衝地に位置している在韓米軍の力が、朝鮮半島の平和のために使われなければならないと、改めて考えた。
米軍が平沢に移ったことで、龍山は120年ぶりに韓国の元へ戻りつつある。これまで米軍が返還した龍山基地の敷地は63万4千平方メートルで、全体243万平方メートル中30%程度であり、外交部と国防部は米国側と残りの敷地の返還について協議している。1904年から日本軍が、解放後には米軍が駐留してきた龍山基地は、歴史的価値の高い建物だけを残し、龍山国家公園に生まれ変わる予定だ。その一部である龍山子ども庭園は今月4日に開場した。10日、龍山米軍基地14番ゲートとして使われた主な出入口を経て子ども庭園に入ると、米軍将官たちの宿舎として使われた赤い屋根の建物が立ち並んでいた。建物の横の道を通ると、米軍が野球場として使っていた芝生広場が広がっていた。芝生広場の向こうに位置するスポーツフィールドでは、小学生野球団が大会出場にするため訓練に励んでいた。最近まで米軍基地だったことが実感できないほど平和に見えた。
しかし、龍山基地の環境浄化がまだ終わっていないのに、拙速に子ども庭園を開場したという懸念も声もあがっている。米軍基地として使っている間、原油流出事故が頻繁に発生し、土壌汚染が疑われるにもかかわらず、除染作業もせず急いで開放したということだ。環境団体も発がん物質による汚染の可能性があると主張している。韓国政府は「安全に何の問題もない」と説明しているが、環境団体はこの件が莫大な米軍基地汚染浄化費用を韓国が抱え込む先例になるのではないかと懸念している。
日帝による強制占領と分断を経て、龍山米軍基地は現代史の栄辱を象徴する空間になった。龍山国家公園が「歴史の汚点」を消して市民のもとに完全に戻るためには、時間をかけて市民社会などとの熟議を重ねなければならない。