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[寄稿]福島の牛と「最悪の失敗」

登録:2022-06-27 02:36 修正:2022-06-27 08:48
福島県浪江町にある「希望の牧場」。牛の皮膚に白い斑点ができている=キル・ユンヒョン記者//ハンギョレ新聞社

 福島に住んでいたのは人だけではない。だから2011年3月11日、数多くの存在が同時に放射能にさらされた。その中の一つが牛だが、人間に飼い慣らされた「家畜の牛」はその日以降、経済的価値のない「被爆牛」となり、直ちに殺処分されなかった一部は人間の出入りが規制された「警戒区域」で「野生牛」になったという。この悲しみと逆説に満ちた「牛の解放日誌」(眞並恭介、『牛と土ー福島、3.11その後。』、2015年集英社刊)は、すべてが汚染されてしまった廃墟の時空間で可能になる。その区域の牛はしばし肉牛のさだめから脱して思うままに歩き回り、自ら餌を探し、角を再び使うようになったという。以前はなかった白い斑点ができた体で。

 人間が動植物を飼い慣らし定住を始めたのは、わずか1万年前ごろ。それより前の200万年近い間、私たちは狩猟採取民だった。現在を基準として見れば、最も長く「持続可能」だった人類の生活方式は狩猟採取だということだ。スマートフォンも早朝配送も、ふかふかの寝具もない「原始的」な日常はつらかったはずだという現代人の「誤解」とは異なり、ジャレド・ダイヤモンドやクライブ・ポンティングのような学者たちは、小規模な狩猟採取社会での生活は農耕社会や産業社会の物差しで軽はずみに測ることが難しいほど繊細で豊かだったと考える。狩猟採取民たちは自然世界の「一部」として存在し、生態系の様々なアクターとの緊密な関係の中で自我を発見し、調和した「統合」を成し遂げていた。彼らはそもそも何かを「ため込んでおく」必要はなかった。共同体が狩猟採取したあらゆるものは個人の労働に対する対価ではなく、自然からの贈り物であり、取り引きの対象でもないため、みなで分かち合うのが常識だった。

 太陽エネルギーは植物の光合成を通じて動物のエネルギーへと変わる。地球上の生命を生かす決定的な化学作用だ。日照量、温度、水、土壌、風、動物など、無数の生態的要因との相互依存的関係の中でそれぞれ固有のかたちへと発達した植物の存在も奇跡的だが、生命力に満ちた野生の土地を「切り開き」、いくつかの人間親和的な作物を集中的に繁栄させる作業も大変だったことだろう。農耕時代の労働は単調でつらいが成果は一貫して大きいというわけでもないため、人類は長きにわたり概して常に空腹だった。ダイヤモンドはそのため、戦争と不平等、そして疾病をもたらした農耕を「人類史上最悪の失敗」と呼んだ。

 事がこじれ始めたのがいつなのかについては、よく「余分の蓄積」が可能になった時点だと言われている。そして事が完全におかしくなってしまったのは、おそらく「意味のない他者」が作られた瞬間だろう。いつからか、誰かが食べるものがなくても、自分はどこかに貯めておいた穀物を出さないでもよい、ということが可能になった。「大飢饉」はしばしば食糧がなくなったからではなく、食糧を買う金がなかったり生産物が他の地域に流出したりしたために起きたということをポンティングは強調する。コンゴの熱帯雨林で狩猟採取をしながら暮らしていた「ムブティ族(バンブティピグミー)」も、見たくない人を見ないようにするために小屋の入口の方向を変えてしまったり、森の外の農夫たちを騙して獲物になった動物たちを生かしておいたりもしたというが(コリン・ターンブル『森の民』)、それでも彼らは互いに意味のある、可視的なつながりの網の中にいた。そのため、外国人、牛、木、それが何であっても、搾取したり、いないと考えてもよいはっきりとした他者はいなかった。

 食糧が人口より多くなったのは化学肥料、殺虫剤および農業機械が導入された20世紀の「緑の革命」以後だ。総量的に供給が需要より多くても「食糧の不安定」に苦しむ人々は消えなかった。食糧安保のための新たな探索は多方面へとつながるが、日々複雑化する国際情勢と共に、目の前の現実となった気候危機は、空腹の地形を「意味のない他者」の場所へと移すにとどまらず、食糧自給率が50%にも満たない私たち自身の危うい他者性をも如実に悟らせてくれる。

//ハンギョレ新聞社

チョン・ナリ|大邱大学助教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1048525.html韓国語原文入力:2022-06-26 18:07
訳D.K

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