残酷な姿だった。
5、600年前に世宗大王が歩いた旧景福宮の跡が、粉々になった姿であらわになった。わずか100年前、日本人が500年前の朝鮮王朝の正宮だった景福宮をはばかりなく壊したという事実が、疑いの余地のない遺跡の実体として証言するかのように現れた。日帝は朝鮮統治の成果を示す近代博覧会の建物を建てるとして、人の背丈ほどの幅150~160センチの四角柱の礎石を景福宮の旧殿閣跡のあちこちに埋めた。建物の礎石の下に割栗を敷いたり、こまごました形の基壇を築いてあった朝鮮初期の景福宮の建物の痕跡は、無残に破壊されていた。東西南北に列を作った日帝の重々しい柱の礎石に押しつぶされ、あちこちに散らばって廃墟となった惨状が赤裸々に広がっていた。
今月8日、景福宮の東宮南側でこのような惨状の痕跡が多数確認された。最近、国立江華文化財研究所が発掘した景福宮東宮殿エリアの南側で、厠跡の遺跡と共に、1915年に日本が作った朝鮮物産共進会・機械館の柱の礎石が106年たって初めて発見されたのだ。宮殿の東側の関門である建春門殿閣と世宗路一帯のビルが遠景に見える中、厠の遺跡よりも南側の敷地で、朝鮮前期の景福宮殿閣跡を日本人の建物の柱の礎石が押しつぶしている衝撃的な場面が目の前に広がった。土と砂を固めて土台をつくり、その上にコンクリートをかぶせた重く威圧的な柱の礎石が、南北軸で15列、東西軸で15列も姿を現していた。その下に粉々になり崩れた状態で下敷きとなっていた朝鮮初期の建物の礎石下の割栗や基壇、防火壁などの施設を見て、胸が痛んだ。実は、この日マスコミの注目を集めたのはこの付近の東宮殿近くで発掘された19世紀の再建当時の厠の遺跡だった。宮殿から発見された現代式浄化槽のあるトイレの跡という点で注目を集めた。しかしそれに劣らず、いや、それ以上に重要な韓国近代史の傷が発見されたという事実は、あまり伝えられなかった。
朝鮮物産共進会は、1915年9月11日から10月31日まで景福宮の内部で朝鮮総督府主催で開かれた朝鮮初の公式な近代博覧会だ。韓日併合から5年で、朝鮮を統治して成し遂げた近代化の成果を誇示するために、各道の物産と日本や西欧から持ってきた様々な珍しい近代文明を展示し、朝鮮近代化の現在と未来像を知らしめようという目的だった。武断統治の立案者だった寺内初代総督は、この官制近代化行事の場所として、1896年の露館播遷(高宗ロシア公館亡命)以前まで高宗皇帝の住処だった景福宮に目をつけ、1913年から工事に入り、勤政殿や慶会楼などのいくつかの大型殿閣だけを残して、東宮殿をはじめ多くの建物をすべて壊してしまった。総督府は取り壊された場所に鉄道館、美術館、第1・2陳列館、機械館など巨大な石造建物と仮建物を建て、後に朝鮮総督府美術館になる美術館の前にフランス式庭園を造成した。
今回発見されたどっしりとした柱の礎石は、当時の勤政殿の隣の陳列館の跡だ。朝鮮物産共進会の行事場を鳥瞰図のように描いた「共進会会場景福宮地図」という当時の地図を見ると、柱の礎石が新たに発見された共進会の建物跡は、地図の真ん中の景福宮勤政殿(2階建て建物)の右側(東側)に縦軸に配置された2棟の陳列館のうち、上の方の建物である機械館の跡と把握される。研究所のヤン・スクチャ学芸官は「機械館の下の柱の礎石が確認されただけで、建物の規模がかなり大きかったことが分かった。今回発見された厠の上の方に調査範囲を拡大すれば、当時の共振会の機械館全体の輪郭を把握できると思われる」と述べた。
これまでの発掘結果と分析を総合すると、東宮南側エリアは景福宮の歴史の生きた現場博物館となる。今回、朝鮮初期の景福宮の建物跡の石造遺構が初めて本格的に大量に確認され、その後、19世紀に建てられた宮人用の大型の厠と宮城を守っていた宿舎跡に加え、朝鮮初期の宮殿跡を壊してその上に建てられた朝鮮物産共進会・機械館の大型の柱の礎石まで、生々しい歴史を一目で眺めることができるからだ。600年の歴史が込められた遺跡が、現代の光化門ビル群と建春門を背景に広がっているという点からも、野外遺跡博物館としての価値は十分にある。
今年30周年を迎えた文化財庁の景福宮復元事業で、これまで一貫してきた復元基準は、朝鮮初期でも20世紀近代でもなく、1868年の再建当時の建物と配置構図だった。朝鮮物産共進会を控え、再建されて50年も経たない1913~1915年にほとんど破壊されていた景福宮エリアを、原状回復することが事業の始発点だった。研究所側は「厠など東宮エリアの南側遺跡の保存・整備活用法は関連部署と協議してまとめる」としているが、より能動的にこの遺跡の保存・活用案について考えるべきではないだろうか。世間にあまり知られていない景福宮破壊の暗黒の歴史である朝鮮物産共進会という希少な跡であるだけでなく、見れば見るほど106年前の景福宮破壊の実情を新たに追体験させられるという点でも、遺跡の価値は大きいからだ。