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4歳、懐には千ウォン札1枚…5・18光州抗争の「幼い無名烈士」の名は

登録:2021-05-15 03:37 修正:2021-05-15 10:49
昨年11月19日、光州広域市北区の国立5・18民主墓地で、5・18真相究明調査委員会の調査官が遺伝子採取のために4歳と推定される無名烈士の墓を掘り起こしている=キム・ヨンヒ記者//ハンギョレ新聞社

 私には、光州広域市北区雲亭洞(プック・ウンジョンドン)の国立5・18民主墓地を訪問した時に必ず立ち寄る所があります。5つの無名烈士の墓(墓域番号4-90、92、93、96、97)と行方不明者の墓域(10墓域)です。故人の名前、生年月日、死亡した日、家族の名前などが墓碑に記された他の犠牲者の墓とは異なり、無名烈士の墓碑には「無名烈士の墓」という5つの文字と改葬された日付だけがぽつんと書かれています。行方不明者の墓は墳丘がなく、寂しい感じがします。「一体、この無名烈士はどこの誰で、どのように死んだために家族を見つけられなかったのだろうか」「行方不明者たちはどこにいるのだろうか」「まだ生きている人はいるのだろうか」。心の中の疑問がいつかは解消されればという思いから、無名烈士の墓と行方不明者の墓域を訪ねてしまうのです。

 こんにちは。5・18民主化運動など、主に光州地域のニュースを取材している全国部のキム・ヨンヒです。最近、光州では、5・18墓地に埋葬されている子どもの無名烈士に熱い関心が注がれています。41年ものあいだ寂しく横たわっている幼い亡骸が誰なのか、知っているような気がするという人が現れたからです。

 4-97番の無名烈士の墓には、家族を探し出せなかった4歳(5・18民主化運動当時。推定)の子どもが眠っています。墓域の端の方に位置するため、いっそう寂しく感じられる墓地でもあります。この子どもは1980年6月7日、光州市南区松岩洞(ナムグ・ソンアムドン)の山で、女性の服に包まれて密葬された状態で発見されました。子どもの懐には1枚の1000ウォン札がありました。当時、光州市役所社会課の公務員チョ・ソンガプさん(78)が住民の情報提供を受けて収拾し、望月洞(マンウォルドン)墓地(旧5・18墓地)に埋葬しました。同日の朝鮮大学病院の検死記録によると、この子どもは首に銃弾を受けて死亡し、死亡した時期は検死日の10~15日前(1980年5月23~28日)でした。検死記録には「死者を30代の女性が軍のジープに乗せてやって来て、孝徳洞(ヒョドクトン)にある仁星高校前の山に埋葬し、その車で帰っていった」とも記されていました。子どもの死に軍が関係していると推定できる内容です。

木浦科学大学のイ・ドンチュン教授が、1980年5月27日の朝、4歳ぐらいの男の子を抱いて軍のバスの車内に座っている=イ・ドンチュン教授提供//ハンギョレ新聞社

 1980年5月27日、旧全羅南道庁を守っていて戒厳軍に捕らえられた木浦科学大学のイ・ドンチュン教授(62)は、「最後の抗争の時に自分が連れていた子どもが、幼い無名烈士だと思う」と本紙に語りました。これまでは証拠がなかったため話せなかったが、1980年5月27日の朝に外信記者が撮ったと推定される映像で、自分が子どもを抱いて軍用バスに乗っている姿を見つけたというのです。

 映像の中の子どもは、赤い上着を着て不安そうに窓の外を見つめています。この様子は、いま旧全羅南道庁で行われている「外信記者ノーマン・ソープ 5・18特別写真展」(5月7日~7月31日)で展示されている写真でも確認できます。

 イ教授は「鎮圧作戦の際、戒厳軍に捕まって道庁の前庭に連れて行かれたのだが、先に来ていた2人の高校生の男女から4、5歳くらいの男の子を託された。バスに乗って尚武台(全羅南道・全羅北道戒厳軍指揮本部)の営倉に連れていかれ、分類審査を受けた際に憲兵に子どもを引き継いだ」と説明しています。イ教授はまた、「実弟が5・18当時に尚武台の憲兵だった知人から、『あの時、市民軍が抱いてきた子を覚えている。軍の兵舎で保護していた子どもが突然いなくなったので、軍が大慌てになった』と聞かされた」と語っています。

 本紙の報道以降、幼い無名烈士に関する情報提供もありました。ある50代の市民は、文化体育観光部の旧全羅南道庁復元推進団に連絡し、「報道された写真の中の子どもは、1980年5・18の際に赤い上着を着て出て行った弟と顔が非常によく似ている」と語っています。この市民は「当時、弟は小学校1年生だったが、小柄で4、5歳に見えた可能性がある」と付け加えています。復元推進団は5・18民主化運動真相究明調査委員会(調査委)と協議し、遺伝子が一致するかどうかを確認する計画です。

4歳の無名烈士の検死記録=資料写真//ハンギョレ新聞社
5・18当時、光州市役所の社会課に勤務していたチョ・ソンガプさんが、光州市南区の孝徳初等学校の向かい側から、4歳の子どもの遺体を収容した場所を指し示している=資料写真//ハンギョレ新聞社

 調査委は子どもの無名烈士について少し違う意見を提示しています。子どもを殺して埋めたという軍人の証言を得たからです。

 5・18で光州に投入された第11空輸旅団第62大隊所属の3人の部隊員は、「1980年5月24日に、松岩洞で陸軍歩兵学校教導隊との間で誤認射撃が起こった後に、市民軍を探し出すための民家の捜索過程で、子どもたちが遊んでいるところに向かって銃を撃った。現場に行ってみると4~5歳くらいの子どもが死亡しており、仮埋葬した」と証言しました。調査委は、チョ・ソンガプさんが収拾した子どもの無名烈士が、この時に死亡した子どもだった可能性もあるとみています。ただし、「30代の女性が埋葬した」との検死記録と62大隊の部隊員の供述が一致しないため、さらなる調査が必要とみられます。

 市民のCさんは「5月27日に軍用バスで連れて行かれたのだが、7歳の子どもと一緒に3日後に解放された」と調査委に証言しています。イ教授が連れていた子どもが、27日以降も生きていた可能性が提起されたのです。

 イ教授といた子どもの行方は今も分かっていません。子どもの無名烈士の身元も闇の中です。はっきりしているのは、「あの時の軍人」たちは知っているということです。

キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/995312.html韓国語原文入力:2021-05-14 20:34
訳D.K

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