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[ルポ]故国に来たものの「黒い労働」は継がれ…高麗人3世代を慰める一杯のそば

登録:2020-01-30 10:01 修正:2020-02-02 08:21

10年前に韓国に来たタマラ、食堂の仕事からマンション・モーテルの清掃 
故国できつい仕事を転々…夫は働き始めて3日で亡くなり 
 
娘に受け継がれたつらい生活 
病気で夫を亡くした娘アンジェリカも 
幼いベロニカを連れて母のもとに 
韓国にきて12時間工場労働 
 
高麗人母娘の切なる夢 
「ベロニカはここで成功てほしい」 
3世代が唯一ともにする食事は 
ふんだんに薬味をのせた「クッシ」をすする

イ・タマラさんの家族が12月26日夕方、自宅でウズベク式の麺を作って食べている。高麗人は冷たいスープに醤油、酢、砂糖、塩、薬味などを混ぜて出汁を作る。キャベツ和え、キムチ、ナス炒め、豚肉炒めなどを麺にのせ出汁をかけて食べる=安山/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 小学生のキム・ベロニカ(12)はピザが一番好きだ。4年前に離れたウズベキスタン(ウズベク)の友達が懐かしいが、高祖母(曾祖母の母)の故郷の韓国で韓国の友達と食べるピザは格別だ。ベロニカの母のナム・アンジェリカ(41)は韓国のサムギョプサル(豚バラ肉の焼肉)が好きだが、海産物料理は嫌いだ。海を見ることのできないウズベキスタンで、アンジェリカの家族は韓国人が好むイカやタコを食べたことがなかった。

 二人の味の好みは違うが、いつでも一緒によく食べる食べ物はある。アンジェリカの母のイ・タマラ(66)が作る「チャンチクッシ」(にゅうめんのような汁そば。クッスともいう)だ。クッシが嫌いな高麗人はほとんどいない。タマラの母と祖母が「ツバメの国」(北方の高麗人が南方の故郷をいう言葉)を懐かしんで作ってくれたクッシを、タマラはウズベクでも、韓国の安山(アンサン)でも家族のためによく作る。「私たちはいつでも(クッシを)食べるんです。寒ければ温めて食べて、夏は冷やして食べます」。 先月26日、京畿道安山市仙府洞(ソンブドン)の自宅の台所で、クッスの麺をすくいながらタマラが言った。

高麗人イ・タマラさんが12月26日夕方、京畿道安山市檀園区仙府洞の自宅でウズベク式の麺を作っている=安山/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

高麗人イ・タマラさんが12月26日夕方、京畿道安山市檀園区仙府洞の自宅でウズベク式の麺を作っている=安山/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

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流浪する暮らしを象徴する高麗人の料理、「クッシ」

 高麗人のクッシのレシピは人や地域によって少しずつ異なる。豆満江を越えた側に暮らしていた朝鮮人をスターリンが1937年、中央アジアに強制的に散らばらせた後にも「カレイスキー」(高麗人を意味するロシア語)たちは故郷を忘れまいとそれぞれの方法でクッシを作った。クッシは朝鮮民族にとって骨の折れる農作業に耐える間食であり、喜びをともにする宴の食べ物だった。ただ、高麗人が中央アジアの熱い砂漠性気候に耐えながら生きる過程で、熱いスープは冷汁に変わり、現地で手に入る豊かな薬味が韓国式の薬味の代わりになった。

 タマラがクッシによくのせるのは、3世代の家族が皆好きな豚肉だ。油を引いた中華なべに千切りのタマネギと塩、唐辛子粉を入れて炒める。南側の人たちがあまり好まないコリアンダーの種の粉も入れて香りを添える。わけぎとニンニク、豚肉を炒め、これにトマトとナス、キャベツ、アグリエーツ(ロシアのキュウリ)を加える。錦糸卵とそうめん・中太麺を使うのは間違いなく韓国式のクッスのレシピで、肉を使って油っこく料理するのはロシア式だ。ここに醤油と氷酢酸、砂糖で味付けしたスープを注ぐと、冷麺や東南アジアの食べ物のように見える。ウズベクではもともと冷やして食べるクッシだが、安山の冷える夜をしのぐためにお湯を混ぜると、ぬるいスープになった。

 タマラ3世代が朝食によく食べるフレープ(ロシアのパン)も同じだ。ウズベクに住む高麗人は、ぼそぼそして味のないロシアのパンに韓国式の唐辛子油と味噌を混ぜたヤンニョム(たれ)を塗った後、キムチやニンニクをのせて食べる。タマラの祖父と祖母、母が、懐かしい朝鮮の地への思いをウズベキスタンの主食であるパンと混ぜて作った高麗人だけの食文化だ

 重なるようで重ならないものが込められた彼らの食卓は、ウズベクにもロシアにも韓国にも属せず、境界人として生きていくタマラ3世代のアイデンティティをそのまま表している。中央アジアでツバメの国を懐かしみ、荒れた畑を耕した時に食べたクッシは、憧れの故郷に帰ってもつらい労働で疲れた人々を慰める料理だ。箸の代わりにフォークを持ってタマラ3世代は集まって座り、ずるずると麺をすすった。彼らの家族が一日のうちで唯一、食事を共にする時間だった。

高麗人タマラさんが作ったウズベク式のクッシ=安山/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

高麗人が朝食に好んで食べるパン。平凡に見えるがパンに味噌を塗ってキムチをのせて食べる=安山/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

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受け継がれた「黒い労働」、厳しい暮らし

 この一杯のクッシが、どこにも定住できずどこにも重ならないまま生きていく彼らの、受け継がれる苦難を象徴している。アンジェリカは毎日朝5時50分になれば家を出てワゴン車に乗る。コップ一杯のインスタントコーヒーで目を覚まし、空腹を満たす。仙府洞からアンジェリカのような高麗人たちを乗せたワゴン車は、京畿道華城(ファソン)の工業団地に行って彼らを送り出す。ここの香水びん工場でアンジェリカは朝7時30分からきっかり12時間働き、再びワゴン車に乗る。2週間間隔で夜間交代勤務もして、200万ウォン(約18万5千円)ほど稼ぐ。おばあさんたちの故郷という韓国に来て5年近く、アンジェリカは周辺を見物したこともない。

 娘が働く工場に行ったことがなくても、母は娘がどのように働いているか誰よりもよく知っている。タマラも10年前に韓国に来てから、食堂の仕事とマンションの掃除、安ホテルの掃除などのような「黒い労働」を転々とした。ロシアでは体を動かす3D(Dirty・Dangerous・Difficult)業種をそのように呼ぶ。韓国で高麗人は中国同胞が避ける最もきつい仕事を担う。同胞ではあるが、言葉が通じないからだ。1991年のソ連崩壊後、中央アジアの国々は自国民政策を採り、高麗人にもウズベク語を使うことを強要した。30代まで高麗語(朝鮮語)とロシア語を使っていたタマラのような3世以上の高麗人はどこにも働くところがなかった。耕す地を求めて河を渡った高麗人たちが、仕事を求めてツバメの国に戻り始めた理由がここにある。

 「ウズベクにいた時から、私はここ、(故郷は)韓国だよ。『あの国(ウズベク)は私たちの国ではない』、私はそう教わりました」。生まれた所でもなく、来たこともない韓国だが、タマラの固い信念だった。しかし、50代になってようやく帰ってきた故郷は、憧れていた故郷ではなかった。韓国に来た途端、高麗人が運営する人材事務所を通じて安ホテルや銭湯などから出てくるタオルやサウナ服を洗濯する大規模なクリーニング店の仕事をした。もうもうとほこりが舞うクリーニング店で一日12時間働くと、100万ウォン(約9万3千円)ほどの給料をくれると言われた。ところが、故郷の人びとはよくタマラをだました。月100万ウォンをくれると言ったクリーニング屋の社長は「次はもっとやる」という言葉を繰り返し、10万~20万ウォンずつの少額を握らせて「次はもっとやるよ」という言葉ばかり繰り返した。「月給くれないなら仕事辞めるよ」と声を張り上げても、社長は聞き入れなかった。タマラが韓国語も、韓国の法律もまともに知らないということを社長はよく知っていた。「社長が食事するところまで追いかけ、『金をくれるまで待ってる』と闘って、結局そのお金を全部もらって出て来ました」

 しぶとく生き抜かなければならなかったタマラだが、突然の夫の死の前ではそうはできなかった。タマラを追って数カ月後に韓国に出稼ぎに来た高麗人の夫は、職について3日後に「急性心停止」で死亡した。持病もなかった夫が、どこでどんな仕事をし、どんな事故で死んだのか、タマラはわからない。「ただ座っていて倒れたというが、見ていないからわからない。警察がそう言うから、そうなんだと思うしかない」。韓国語がもう少しできたら、韓国についてもう少し知っていたら、夫の死についてもっと詳しく知ることができたかもしれない。9年前とは違い、タマラはもう「心停止」という単語をはっきりと発音することができるが、すでに夫は灰となって久しい。

 母親のタマラのようにウズベク語が話せなくて周辺人となったアンジェリカも、むしろロシア語を使えるロシアに渡ることにしていた。ところが2014~15年にロシアに経済危機が起こり、食堂の補助として働いていた保育園で、ただでさえ少ない給料を半分に減らすと言われた。生まれてからロシア語だけを使ってきたアンジェリカは、2015年に韓国に来て、韓国語を覚える間もなく自動車部品工場の仕事に飛び込んだ。午前7時30分までに出勤して一日中働いても、給料はわずか120万ウォン(約11万円)。アンジェリカは母親のタマラがしたように、高麗人の人材事務所に行って「とにかく給料をもっとたくさんくれる所に送ってほしい」と頼んだ。

 そんなアンジェリカも、高麗人の夫を2011年11月に亡くしている。普段からよくお腹が痛いと言っていたが、病院に行かずに薬だけ買って飲んでいたのが災いとなった。夫は結局、苦痛に耐え切れなくなってようやく病院に行き、がんの診断を受けた。病院では「もう手遅れだ」と言った。夫は手術後6カ月生きて息を引き取った。もう少し豊かに暮らしていたら、夫のがんを事前に発見できただろうか。そんな自責の念に苦しんでいたアンジェリカは、父を失った3歳の娘ベロニカの顔を見つめながら、どうせなら「お母さんのいる国」でお金を稼ごうと決心して、4年後、安山にやってきた。

キム・ベロニカ(左)が12月26日夕方、京畿道安山市檀園区仙府洞の通りで仕事帰りの母ナム・アンジェリカに嬉しそうに抱きついている=安山/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

高麗人イ・タマラさん家族が住む京畿道安山市檀園区仙府洞の高麗人村の様子。通りにはロシア語表記の商店が多く見られる=安山/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

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高麗人村「テッコル」で見る夢

 安山市仙府洞の高麗人村「テッコル」にはタマラ3世代のような高麗人たちがあふれる。イネ科の多年草「ティ」がたくさん生えるので「ティッコル」(テッコル)と呼ばれたテッコルは、移住労働者が先に場を占めていた安山市檀園洞(タンウォンドン)一帯より場末なので住宅価格が安かった。韓国語のできない人も、テッコルでは高麗人の支援団体や人材事務所の支援を受けることができた。テッコルの通りにはロシアの食材を売るスーパーマーケットもいくつかある。そこは韓国にもかかわらずロシアのように見えるが、住んでいるのは韓国人でもロシア人でもない高麗人だ。昨年9月現在、韓国に住む高麗人は8万3千人余り(法務部「出入・外国人政策統計月報」)と推定される。

 テッコルは約150年を流浪した高麗人の新しい故郷になった。ここでタマラ3世代もついに定着する暮らしを夢見ている。ベロニカが将来を準備できる人生、「プクチャイ」(高麗人式味噌チゲ)や「シラクチャングク」(干し菜っ葉のみそ汁)を作って食べても、誰にも「カレイスキー」と後ろ指差されない暮らしだ。

 テッコルで韓国語を学んだベロニカは韓国に来て4年で、祖母が忘れつつあり、母は学んだこともなかったツバメの国の言葉をすらすらと口にする。タマラとアンジェリカが、食事もろくにできないきつい労働に耐えることができる理由がここにある。「ウズベクに行きたいという気持ちはありません。ベロニカが読み書きできなきゃ。ベロニカが韓国で成功するのを見たい」

安山/オ・ヨンソ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/labor/925989.html韓国語原文入力:2020-01-29 05:00修正:2020-01-29 09:17
訳C.M

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