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百済大通寺は日本最古刹の母胎だった

登録:2018-09-05 23:20 修正:2018-09-06 08:10
百済大通寺址関連遺物が大量に見つかった公州市班竹洞197-4番地の遺跡発掘現場。大量に見つかった無地瓦が見える=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 朝鮮半島で最も古い寺はどこだろうか。史書に伝えられる国内最古の仏教寺院は、375年に高句麗人が作った肖門寺、伊弗蘭寺だが、どこに建てられたのかは分からない。そこで学者たちは、位置、名称、遺物など実体が伝えられる寺という基準で限定したりする。この定規で見る時、朝鮮半島で実体が残る最も古い寺は百済の古都である忠清南道公州(コンジュ)にあった大通寺だ。

班竹洞で出土した塑造仏像破片の中の顔面像。羅漢像の一部と推定されるが、木塔内に安置されていたと推定される=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 百済聖王(在位523~554)が、中国は梁の武帝のために建てたと『三国遺事』に創建記録が伝える公州大通寺(527年)が、新羅最初の寺刹である興輪寺(544年完工)はもちろん、古代日本の最古の寺である飛鳥寺(6世紀後半完工)の伽藍様式を産んだ母胎だったという分析が出てきた。1~5月、公州市班竹洞(パンジュットン)の韓国式家屋新築工事現場で大通寺址と関連した多量の女瓦、筒瓦、鴟尾(屋根の棟端の装飾)、煉瓦、塑造仏を発掘したチョ・ウォンチャン韓オル(魂)文化財研究院長とイ・ビョンホ国立弥勒寺址遺物展示館長は、7日に開かれる大通寺発掘調査学術会議でこのような内容の論稿を発表する。イ・ビョンホ館長は「百済寺院に見る公州大通寺址」という論文を通じて、班竹洞遺跡発掘現場から出土した多数の塑造像破片が扶余(プヨ)の後代百済寺院である定林寺と中国南朝時代の寺院の木塔に安置された塑造像と材質、技法、胎土がほとんど一致して、大通寺でも木塔内に安置されていたことが明らかだと指摘した。まだ寺の施設を見せる具体的な遺跡の輪郭は捕えられてはいないが、塑造像が多数出土した点と1万点以上出てきた筒瓦と女瓦などの紋様が、慶州興輪寺と日本飛鳥寺が一致し、木塔、金堂で整然と区切られた百済式寺刹様式の特徴を明らかに把握できるということだ。結論として、屋根に瓦をかぶせた木塔金堂の百済伽藍様式が大通寺で確立され、この様式が新羅や日本に伝わって東アジア仏教寺院の基本源流を形成したということがイ館長の論旨だ。

百済の職人の指紋がついた軒平瓦。木部材が支えた背部に赤い顔料がついていて、当時すでに丹青作業がなされたことを示している=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 チョ院長も「大通寺址調査内容と成果」という報告文を通じて、終端部分を手で整えた軒平瓦や鴟尾などの瓦は、公州遺跡で初めて出てきた高級遺物で、大通寺が公州王京で王宮よりも華麗な最高の建物だっただろうと推定した。特に百済職人の指紋がついた軒平瓦などに赤い顔料がついた跡に注目し、当時すでに丹青作業がなされていたことを示す最も古い証拠と解釈できると明らかにした。班竹洞遺跡は、1万点以上の瓦片と寺刹関連遺物が出土し、5月に文化財委員会が学界の保存意見を取りまとめ史跡指定と調査区域の拡大を決めた。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/860817.html韓国語原文入力:2018-09-05 19:30
訳J.S

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