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アルゼンチン出身のフランシスコ教皇 暗黒の軍事政権下で「見えざる保護者」だった

登録:2014-08-14 00:22 修正:2014-08-14 08:53
フランシスコ教皇が公式即位した昨年3月19日、教皇の故国アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの大聖堂で信者が記念ミサをしている。 ブエノスアイレス/新華ニューシス

1976年から7年間続いた軍事独裁時代
教皇がイエズス会管区長だった時期
「危険に瀕した人を裏で助け」
1998年カトリック懺悔文を主導

 フランシスコ教皇は1973年4月22日、イエズス会司祭として終身誓願をする。以後1992年に司教叙階を受けるまでの20年間、故国アルゼンチンは歴史の荒波に飲まれる。軍事独裁政権の暴圧、民主政府の新自由主義に向けての疾走が相次いで押し寄せた。特に前半の10年は市民の血で染まった民主主義の暗黒期であった。この時期の彼の人生も後の論議から避けられなかった。

 論議の核心は、彼が軍事政権に対する「抵抗」の代わりに「順応」と「協力」を選んだのではないかという点にある。1976年、イサベル・ペロン政権を追放したアルゼンチン軍部は、1983年の民政移譲までの7年間、鉄拳を振り回す。 「国家再組織」という名のもとに反対者を組織的に抹殺した。軍部トップのホルヘ・ラファエル・ビデラは「銃や爆弾を持つ者のみならず、アルゼンチン式生活様式と西欧キリスト教文明に反対する思想をまき散らす者」は皆テロ分子だと規定した。3万人の市民が殺害され失踪した。拷問室で亡くなったり、生きたまま飛行機から海に投げ落とされたりした。

 カトリック教会の対応は二つに分かれた。解放の神学に従う人々は命を賭けて戦った。反面、高位聖職者の多数は沈黙と順応を選んだ。 軍事クーデターの直後、80人ほどの司教が集まり多数決で出した対応策は「沈黙して状況を注視する」であった。

 当時、アルゼンチン・イエズス会管区長だったベルゴリオ(教皇の名前)神父はその間のどこかにいた。革命闘争には参加しなかったが、政権の暴圧を無視したわけでもなかった。彼は抵抗者のための「見えざる保護者」に留まったという評価を受ける。1976年イエズス会に所属する二人の神父を軍人が連行していった。何日も悩んだ末にベルゴリオは、従軍神父の代わりにビデラのミサを執典すると自ら要望した。ミサの後、彼は二人の神父に対する善処を直接訴えた。二人の神父は生きて解放され、アルゼンチンを去った。彼が管区長だった期間、一人のイエズス会員も殺害されなかった。

 軍事独裁の終息後、一部ではベルゴリオが軍事政権の協力者だったと主張した。しかし当時の人権運動でノーベル平和賞を受賞したアドルフォ・ペレス・エスキベルは断言した。「一部の主張と異なりベルゴリオ神父は軍事政権に協力したことがない。他の方法で彼は危険に直面した人々を裏で助けた」

 1998年ブエノスアイレス大司教となった彼は、2000年に軍事政権期のカトリック教会の罪を告白する文『私の罪』を主導した。『私の罪』 は「私たちは自由と人権を害した人々に極めて寛容だった」として、「責任ある人々の沈黙を許してほしい」と祈った。教会における過去史への贖罪を主導した彼は、司牧活動の一生の指針とした「貧困と共にする教会」の実現に一層積極的に乗り出す。民主政権の新自由主義推進が貧困と不平等を拡大する祖国の現実に目を開いた。今は「世界の悲惨」に対抗して「素朴」と「謙遜」を武器に奮闘している。

ソン・ウォンジェ記者 wonje@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/650951.html 韓国語原文入力:2014/08/12 22:21
訳M.S(1564字)

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