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[低い声] "青年の夢、情熱? そのような言葉は聞いただけで腹が立ちます"

登録:2011-12-09 11:54

原文入力:2011/12/08 23:42(5370字)
イ・ジョングク記者


お金のために大学を去る学生たち


←イラストレーション ユ・アヨン


  元老歌手チェ・ヒジュンが今、歌を歌うとすればその題名は‘下宿生’ではない‘休学生’かも知れない。教育科学技術部によれば2011年現在、大韓民国大学生の数は373万人だ。この内、休学生数は111万人で全体の30%に肉迫する。 大学生3人に1人は休学生だということだ。 なぜ休学をするのだろうか。 最近行われたある就職ポータルの調査によれば回答者1793人の55%が‘授業料を稼ぐため’と答えた。昔は兵役や外国研修のために休学をしたとすれば、今は金のためにするということだ。 授業料を稼ぐための‘バイト’は過去にもあった。だが、問題はこの頃の授業料は少しずつするバイトでは‘手に負え’ないというところにある。 その上、生活苦まで重なれば大学は‘私の人生’からますます遠ざかる。‘長期休学生’たちが続出する理由だ。彼らは言う。 「何が問題かわからない」と。 一日中、一週間仕事をしても復学のための授業料はおろか生活費すらますますギリギリになる現実に挫折の重さが増えるだけだ。

 今回の低い声は‘金’のために学校に戻れずにいる男女2人の大学生に会った。84年生まれの男子学生は元々家庭の暮らしむきが苦しく、88年生まれの女子学生はソウル 江南(カンナム)で中産層以上の生活を送っていたが父親の事業失敗で一日で底辺に追い出されたケースだ。名前は全て仮名だ。


休学7年目 ハン・ミンゴン氏


授業料払えず未登録 除籍
兵役を終えると信用不良の烙印
自分と同じ年頃の大企業社員を見て
‘私が何を間違って生きたか’自己恥辱感


母は心配するなと言った。お金を作ってくるからと。


  私は2003年、首都圏のある大学の社会福祉学科に入学した。入学金を含め300万ウォンの授業料を納めた。合格通知を聞くやいなや授業料を賄うために母は私の名義で学資金貸し出しを受けた。両親は早くに離婚した。姉は父親について行き、私は母親と暮らした。父親側とは往来が途切れて久しかった。入学して間もない頃に父が亡くなったという消息を聞いた。 私を育てるために母は大きな借金を背負った。大学に入ったことにより借金は更に増えた。 1年目は貸出金でやっと済ませた。大企業が運営する‘○○キャピタル’から貸出を受けたことを思い出す。 500万ウォンの貸出を受け、一ヶ月に数万ウォン程度の利子を返していった。そのようにして1年をしのぎ、再びお金が全くなくなった。冬休みが終わり授業料告知書が舞い込んできた。払う金がなかった。学校に頼んで授業料をまもなく用意するので待って欲しいと言った。母親はお金を作りに四方八方飛び回った。時間は流れ中間考査まで受けた。奨学金でも受けられないかと思って必死に勉強した。ある日学校から電話がきた。登録できないので除籍処分をするという電話だった。


  2004年、そのようにして私は学校から追い出された。怒りが込み上げた。誰が金を出さないと言ったか。もう少し待って欲しいと言っただけなのに。私ができることは軍隊に行くことだけだった。


  除隊した私を待つのは‘信用不良者’というレッテルだった。一ヶ月にたかだか数万ウォンの利子を払えないほど母親は苦しんでいた。借金取りを避けてこっそりと引越しして転入届もせずに住民登録さえ抹消された状態だった。当座私たちが暮らすお金もなかった。仕事という仕事は全て探して働いた。コンビニ、サウナ、工場などやっていない仕事はない。露天商もしてみた。この頃は露天商もインターネットで募集している。‘バイト’サイトを見て訪ねて行ったが、初めてやみくもに始めて、露店協会の人々が押しかけてきて本当に殴られるところだった。


  普通一日に12時間は働いた。週末もなかった。朝にはコンビニ、夕方にはサウナ、週末には地方自治体で運営する体育館、本当に一生懸命働いた。そのようにしても月に100万ウォンをちょっと超える程度だった。
 一度は犬が食べるおやつを作る工場で仕事をしたことがある。上流層への販売を目的とした高級おやつを作る工場だった。材料はサケ、牛レバーなどだった。 私はラーメン食べて出てきて仕事をするが、犬は私よりより良いものを食べているという気がして複雑な思いをした。


  何年もあくせく稼いで、2009年にようやく信用不良者のレッテルを剥がした。幸いにも信用不良者回復プログラムで貸出金の一部を帳消しにしてもらった。


  復学したかった。教師になりたかった。ところが稼いで家賃を払い、生活費を賄えば何も残らなかった。3年前に学校に電話をしたところ、復学は可能だという返事だった。学費は大幅に上がっていた。授業料だけで300万ウォンを越えていた。さらには再入学なので入学金を再度出さなければならないとのことだった。入学金だけで100万ウォン近かった。それだけで一ヶ月分の生活費だ。意欲がわかなかった。そのまま電話を切った。


  母親は今、公式的には私との連絡が途絶えた状態だ。そのために資格要件を整え低所得層賃貸住宅を支援されて暮らしている。初めは母親んとともに暮らした。ところが時々見に来る当局の実態調査と周辺の視線が恐ろしくて家を出た。ソウル、新林洞(シルリムドン)考試村付近の家賃30万ウォンの屋根裏部屋がわが家だ。


  この頃は月に109万ウォンを受け取り、ある市民団体で働いている。正規職ではなくインターンのようなものだ。路上で後援者を募集する仕事だ。複数のバイトを転々としていた時期よりはちょっと良くなった。だが、根本的な問題は変わらない。家賃を払い生活費を賄えば何も残らない。復学はもうあきらめた。一度は人にも会わず、食べるものも減らしたところ、10万ウォンが残ったことがある。それを貯蓄しようとしたが、ふと‘このお金を貯蓄して私が何をするのだろう’という気がした。家どころか、学費も用意できない。そのまま使う方がマシだという結論に到達した。あまりにも生活が厳しく、町役場を訪ねて行き「私のような境遇に置かれた人々を支援する制度はないのか」と尋ねたことがある。返事は「ない」だった。


  ソウル、汝矣島(ヨイド)のある食堂でバイトをしたことがある。大企業の社員証を首にかけて高い食べ物を食べる私と同じ年頃の若者たちを見ながら‘私が何を間違って生きたのか’と自ら叱責したことがある。


  だが考えてみれば本当に熱心に生きてきた。どれくらいさらに熱情的に生きなければ、どれくらい目を低くしなければならないのか。公正な競争でない状況で若者たちを競争に追い詰め‘目が高い’、‘競争力が劣る’という忠告をする大人たちを理解はできない。


  夢、情熱、こんな単語は聞いただけで怒りがこみ上げる。どれくらい、どれくらいさらに熱心に生きなければならないと言うのか。


‘江南キッドの涙’イム・ウンジョン氏


大学に入学するやいなや事業不渡り
貸出・バイトに苦しむ人生の連続
友人らを遠ざけ‘自主的仲間はずれ’
舞踊家になる夢は捨て、ロトが希望


舞踊家になる夢は捨てました。ロト当選が私の夢になりました。


  私は元々は‘江南(カンナム)キッド’でした。 中学高校はソウル 江南で出たし、事業を営む父親のおかげで満ち足りた家庭でした。豊かな暮らし向きのおかげで一貫して舞踊をすることができました。 ところが、2007年に私が大学に入学するやいなや父の事業が不渡りを出しました。 突然暮らしが難しくなるほど家勢が傾きました。その時、家も江北に移りました。舞踊科は学費が他の科より高いのです。入学する時に入学金を含めて580万ウォンを納め入学しました。入学するやいなや学資金貸出を受けましたよ。総額800万ウォンを受けましたが月に1万6000ウォンずつ利子を払います。 7年間は利子だけ返して後から元金を返す形です。ところが舞踊科は色々な付帯費用がかかります。公演も多く、各種行事の度に教授様に差し上げるものもありますからね。いつ使ったかも分からないうちにお金がすぐなくなりました。


  1学期だけ終えると休学しました。本格的に‘バイト戦線’に飛び込みましたよ。普通はコーヒー専門店とか、酒場のようなところでバイトをたくさんしました。学生たちがこういうバイト先に多く訪れるのは理由があります。お金を多くくれることはないけれど、時間が固定的なので勉強と併行し易いからですね。昼間はコーヒー専門店、夕方には酒場、そして一週間に二三度は舞踊学院のバイトを併行しました。コーヒー専門店のような場合、時間当り4300~4500ウォン程度を受け取ります。私は運が良くて5000ウォン程度を受け取りましたがとても珍しいケースです。良いバイトの場合、情報を得るのがとても大変です。親しい友達同士でも絶対に共有しません。自分だけが知っています。どこがいくらをくれるのか、仕事の強度がどの程度なのかは直接歩き回って通って体験するしかありません。


  アルバイトをして色々なことを体験しました。特に酒場で仕事をした時は、サービングに出て後頭部をたたかれるようなセクハラみたいなことはとても嫌でした。病院の近所にある酒場だったので医者たちがたくさんきましたよ。一度は酒を置いて行こうとすると“付き合うか、付き合うか”という声が聞こえましたよ。‘私がそんな風に見えるのか’という思いで腹が立ちました。そんなふうに一学期休学して我を忘れて稼ぎました。 ようやく学費を用意して復学をしたりもしましたが状況はよくなりませんでした。


  学校に通いながら学院のバイトは継続しましたが、月に20万~30万ウォンのバイトではとうてい持ちこたえられませんでした。また、貸出を受けるほかはありませんでした。自然に友人たちとも遠ざかりました。学校で友人に会ってご飯を食べてお茶を飲めば一日に1万~2万ウォンがすぐになくなります。私には血のようなお金なのにね。結局、自ら‘仲間はずれ’になりました。学校に通いながら静かに行って帰って静かに消えました。同じ年頃の女子学生たちのブランド バッグのようなものがうらやましくなかったかって? そのような質問がすごく嫌いです。カバンのようなものに気を遣う余裕はありません。そんなことが嫌で、さらに友人たちと遠ざかったようです。友人たちは多く持って通うから…。


  そのようにして学校に通いましたがまた休学しました。元々、その学校では大学院にたくさん行きますね。今は大学院で使う学費まで前倒しで貸出を受けたので大学院進学は不可能になりました。事実、舞踊家の夢はずっと前に捨てましたよ。


  自分で言うのも恥ずかしいんですが、私には舞踊の素質がありました。 外部オーディションも合格して公演をしたりもしました。今は復学してひとまず就職することが希望です。大学には別に未練はありません。調べてみたら大学3学年に在学中ならばスチュワーデスに志願可能だったんですよ。今はそれを調べてみています。スチュワーデスに志願しようと思えば復学しなければならないのですが、目の前が真っ暗です。500万ウォンの授業料はどこで用意できますか?


  姉は早くに就職して自分のご飯を稼いでいます。ところで弟(妹)が問題です。浪人していますが今回大学入学をあきらめました。本人がまだ大学へ行く準備ができていないとは言え、学費問題が事実大きかったんですよ。胸が痛みます。


  この頃は昼に公演会場でのバイトをし、夕方には学院でバイトをしています。残りの時間には復学準備をかねて、いや本当は就職準備のために図書館で勉強しています。初めは気楽に学校に通い公演する友人たちを見てうらやましかったり、一方では腹が立ったりもしました。ところが調べてみたらお金のために舞踊をやめる友人がものすごく多いんですね。それを見ながら慰めています。今は慣れてしまいましたね。皆大変でしょう。私だけじゃなくて。


  学校に戻ることを考えただけでいらいらします。戻って何をすれば良いかもわからないし、単純に卒業だけするために戻るような感じもしますし。舞踊家の夢も捨てたのに、授業は聞いても暗澹なる思いです。


  学費ですか? お金がなければまた貸出を受けるしかありません。どうします。はやく就職して返さなければならないですね。バイトももっとたくさんしてですね。私がとても呆れるほどに性格が良くて、それでも頑張っているみたいです。


  この頃は小銭で買う‘ロト’が希望です。思い出す度に買います。時々当選する想像をします。 当たれば、当たれば…。


イ・ジョングク記者 jglee@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/509254.html 訳J.S