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ムン・イクファン牧師と統一運動に捧げた生涯…‘春道’逝く  ユソニ記者

登録:2011-09-26 09:58

原文入力:2011/09/25 22:08(1775字)


‘統一の母’パク・ヨンギル長老 逝去
74年‘民主救国宣言’夫 ムン牧師が投獄され闘争の道へ
94年 ムン牧師逝去後‘7千万民族会’引継ぎ
良心囚家族協議会 構成…金日成1周忌 北韓訪問で獄苦


←パク・ヨンギル長老(左から3番目)が1976年‘3・1民主救国宣言’事件で拘束された民主人士の夫人らと共に法廷前でデモを行う様子. <ハンギョレ>資料写真


故‘ヌッポム(晩春)’文益煥(ムン・イクファン)牧師の妻であり韓国統一運動の生き証人でもある‘ポムギル(春道)’パク・ヨンギル長老が25日午前1時30分逝去した。享年92歳。パク長老は1919年9月1日黄海道(ファンヘド)、遂安郡(スアングン)クムグァンでパク・トゥファン、ヒョン・ムンギョンの四人目の娘として生まれた。父親は旧韓末騎馬将校出身で、母親も当時の漢城(ハンソン)師範学校を出たエリート知識人だった。 パク・ヨンギル長老も京畿女学校を出、日本、横浜女子神学校を卒業した。

パク長老は1938年東京地域韓国神学生の集いで夫の文益換牧師に初めて会った。パク長老は「(ムン牧師は)額が広くハンサムな顔なので目についた」と回想したこともあった。彼女はムン牧師のからだが弱いとし結婚に反対する家族たちに「6ヶ月だけ一緒に住んでも良い。文益換と結婚できないならば一生伝導師の仕事をして独身で生きる」と主張を曲げなかった。結局、パク長老は1944年6月17日、安東教会でムン牧師と結婚する。


←1990年10月、全北(チョンブク)全州(チョンジュ)のイエス病院に入院中、刑の執行停止で釈放された文益換牧師とともにインタビューしているパク・ヨンギル長老(右端)。<ハンギョレ>資料写真



←2007年5月、試験運行の京義線列車に乗り北韓を訪問するのに先立ち、ソウル、水踰里(スユリ)の自宅‘統一の家’前で明るく笑っているパク・ヨンギル長老. <ハンギョレ>資料写真



パク長老は1976年文益換牧師が‘3・1民主救国宣言’に関わり投獄されて本格的な闘争の道を歩むことになる。ムン牧師が統一・民主運動の道に遅れて入ったという意で‘晩春’という号を作り、パク長老はその道に最後まで共に参加するという意味で号を‘春道’とした。1989年ムン牧師が金日成主席との面談のために平壌(ピョンヤン)訪問を決めておきながら躊躇するやパク長老が「本当に失望した。私の夫がそんなに優柔不断だとは知らなかった」として決断を促したというエピソードは有名だ。


ムン牧師が1994年1月18日心臓マヒで突然死亡すると、パク長老は夫に代わって統一運動の中心に立つことになる。ムン牧師が「我が民族が準備なしに解放をむかえ分断されたので、統一には前もって準備をしなければならない」として始めた‘統一を迎える7千万民族の集い’を受け継いだ。


←1995年金日成主席1周忌行事出席のために北韓を訪問したパク・ヨンギル長老は軍事境界線を越えて帰ってきた。<ハンギョレ>資料写真


パク長老は1974年民主化闘争で拘束された人々の家族会である‘良心囚家族協議会’の構成も主導した。彼女は1995年6月、金日成主席1周忌の時 単身で北韓を訪問し監獄の苦しみを体験し、2000年10月には労働党創建55周年招請要人としても北韓を訪問した。2005年南北和解協力に寄与した功労で国民勲章牡丹(モラン)章を受けた。


パク長老はムン牧師がそうしたように‘角膜’を寄贈した。遺族は娘ヨングム、息子ウイグン(JPモルガン シカゴ副社長),ソングン(俳優)氏、嫁チョン・ウンスク(誠信女子大客員教授),キム・ソンシン氏と婿パク・ソンス氏がいる。 葬儀は‘民族葬’で4日間行われる。葬儀室はソウル大病院葬儀場2号室. 出棺は28日午前9時、埋葬地は京畿道(キョンギド)、磨石(マソク)、牡丹(モラン)公園だ。(02-2072-2010)ユ・ソンヒ記者 duck@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/497840.html 訳J.S