原文入力:2011/09/05 11:10(3096字)
キム・ソヨン記者、キム・テヒョン記者
李小仙(イ・ソソン)氏の壮絶な人生
←イ・ソソン氏が昨年10月30日夕、ソウル広場で開かれたチョン・テイル烈士追慕40周忌文化祭で手を上げ挨拶をしている。 キム・テヒョン記者 xogud555@hani.co.kr
3才の小さな天女という名前をくれた父親は独立運動家日本軍に捕まり処刑された 母親は息子との約束を守った。1970年11月13日 亡くなる前、全身に包帯を巻かれた息子は母親の手を握り最後の言葉を残した。「労働者はまっ暗な暗黒世界で仕事をしているが、私は見ていられませんでした。私が死んで小さい窓を開けるので、労働者・学生たちと力を合わせてその窓を少しずつ広げることに力を寄せて下さい。お母さんがそれを実践しなければ、私を今まで育てたことが偽善になりますよ。"
母親は死にゆく息子を見て「私のからだが粉になっても、お前と約束したことは守るから」と泣き叫んだ。すぐに息子の息は途絶えた。チョン・テイル 二十二才、母親イ・ソソン 四十一才の時だ。イ・ソソンが40年を超えて‘生きているチョン・テイル’、‘労働者の母’として生きてこれたのは息子との約束のためだった。母は息子の死を無駄にしたくなかった。
1929年慶北(キョンブク)、達城郡(タルソングン)(現在の大邱(テグ)達城郡)で1男2女の末っ子ろして生まれたイ・ソソンの父親は独立運動家だった。‘小さな天女’という意味の‘小仙’という名前も父親が付けてくれた。父親はイ・ソソンが三才の時、日本軍に捕えられ処刑された。 学校にも通えなかったイ・ソソンは日帝強制占領期間の16才の時、紡織工場に強制的に連行され脱出するなどしんどい暮らしをした。18才で夫チョン・サンス氏と結婚し、1年後の1948年に長男テイルが生まれた。釜山の服修繕屋の作業台上で次男テサムを産むほど、イ・ソソンは常に貧困に苦しめられた。家族は大邱から釜山に、釜山からまたソウルへ、生きてゆくためにさまよわなければならなかった。
息子テイルがソウル平和市場で勤労基準法遵守などを要求し自ら身を燃やし亡くなった後、イ・ソソンの人生は‘180度’変わった。子供に向けられてきた切ない愛がイ・ソソンを労働現場に飛び込ませた。その現場でイ・ソソンは息子を怒らせた労働現実を見て同じように怒った。
41才で22才の息子を天に送り泣き叫んだ
"私のからだが粉になってもお前との約束を守るから"
1970年11月27日‘労働権’という言葉自体がまだ耳慣れなかった時期、チョン・テイルの友人たちとイ・ソソンは我が国の民主労組運動を燃え上がらせた清渓被服労組を設立した。清渓被服労組は座り込みやハンストなどの闘争を通じ一日15時間に及んでいた労働時間を短縮させ、一週間に一日の休業を勝ち取るなど平和市場労働者らの労働条件を改善していった。イ・ソソンは労組顧問などとして活動しながら食事を抜く労働者のために作った‘労組食堂’で、毎日麺をゆでるなど汚れ仕事を自ら引き受けた。また、古着を拾い売って労組活動を支援した。イ・ソソンは貧しい労働者がいつでも走って行き頼れる母のような存在であった。
労働者らに対する熱い愛はイ・ソソンを恐れを知らない闘士に仕立てた。清渓被服労組初期、労使協議会が開かれないのでイ・ソソンは大統領に会うと言って大統領府前に一日中うずくまった。事実上の‘座り込み’だった。座り込みを始めて一ヶ月ぶりに朴正熙大統領と面談し労使協議会が始まったというエピソードは有名だ。
清渓被服労組の成功により1970年代ウォンプン毛紡、東一紡織など民主労組が各地で結成された。脅威を感じた軍事独裁政権はイ・ソソンを静かにはさせなかった。 イ・ソソンは1977年6月、清渓被服労組の仕事の手伝いをしてくれたチャン・キピョ氏が緊急措置違反容疑で拘束された後に開かれた裁判で、判事に向かって「あなた方は両親たちが牛を売り、畑を売って勉強しに行ったのに、こんな裁判しかできないのか。無力な労働者を助けたことを罪だとして尋問するのか」と叱った。(口述一代記<うんざりするほど有難い人々よ>より)イ・ソソンは法廷冒とく罪で1年間、初めての収監生活をしなければならなかった。
イ・ソソンは労働者が戦う所ならばどこにでも走って行き、恐れることなく対抗した。1978年には東一紡織女性労働者らと連帯闘争をし、重傷も負った。「キリスト教会館で刑事が私の両足をつかみ、ずるずると引きずり階段を降りた。背中や肩が階段にカンカンぶつかった。私は死ぬまいと頭だけはしっかり上げて1階まで連れられてきた。重い病気にかからないところはない。」(2009年12月<ハンギョレ>インタビュー中で)このように彼女のからだは蝕まれたが、イ・ソソンは喜んで労働者の強い母になった。
1986年には全国民主化運動遺家族協議会を作り1993年まで会長を引き受けた。1989年135日間の疑問死真相究明座り込みに続き、1998~99年疑問死真相究明および名誉回復特別法制定を要求し国会前で422日間長期座り込みを行った。疑問死特別法は2000年に国会を通過した。故金大中前大統領の夫人 イ・ヒホ氏は回顧録で「子供を胸に刻みこんだ母親だけができる母性の勝利であった」と回顧した。
80才 双龍車工場の外側道路で痛むからだをおして
さっと両手を振り上げ“私たちがいる。頑張れ”
イ・ソソンが最も切実に望んだことは労働者の団結だった。「労働者の全てが力を集め人間らしい権利を必ず手にしなければなりません。労働者の皆さん、頑張って下さい。いつかは労働者が勝利します。一つになって下さい。一つになれば生きられます。一つになれば勝てます。」二大労総委員長に会ったり労働者集会で演説をすることになれば、いつでも‘団結’を叫んだ。
イ・ソソンは何より労働者が自ら命を絶つことを最も耐え難いといった。それで苦しい闘争をしている事業場にはどんなことがあっても必ず訪ねて行った。去る2009年7月、整理解雇撤回を要求して双龍車労働者が長期籠城をしている時も、イ・ソソンは痛むからだをおして彼らを訪ねて行った。「工場の中にいる皆さん、頑張って下さい。絶対に死んではいけないので、塩をつけてご飯を食べて生きて戦って勝たなければいけません。」イ・ソソンは工場の外側道路で両腕をさっと挙げて「私たちがいる。頑張れ」と大声を張り上げた。
イ・ソソンは倒れる直前の去る7月初め、釜山韓進重工業85号クレーンで籠城中のキム・ジンスク指導委員をとても心配していたという。「その人がどんな思いで上がったのかを皆が知って欲しい。キム・ジンスクが死ぬのではと思うと心配で眠れません。どうか死なずに降りてきて一緒にやりましょう。降りてきて下さい。私の願いです。ジンスク氏、私の話を聞いて降りて来てください。」足がとても痛く一歩も歩けず釜山には行けなかったイ・ソソンは映像を通じてキム指導委員に‘死ぬな’と訴えた。
人生の最後の瞬間までイ・ソソンはすべての労働者の母であった。
キム・ソヨン記者 dandy@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/labor/494837.html 訳J.S