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[道を探して]「類例を見ない弾圧を乗り越えた全教組…その歴史を伝えたい」

登録:2011-05-18 09:24

原文入力:2011-05-16午後03:43:32(1963字)

“教職員合法労組”の産婆役
「後輩たちが誇りを失わないでほしい」

キム・ギョンエ記者、イ・ジョングン記者

←チョン・ヘスク前全教組委員長

連載を始めるチョン・ヘスク前全教組委員長
「彼女の教育運動は戦う闘争ではなく、内面の力が自然にあらわれる過程だった。」

1993年10月15日、全国教職員労働組合の委員長として彼女は「解職教師の全教組脱退という条件付き復職受け入れ」を電撃発表した。1524人の解職教師のうち1294人が教壇に復帰することになる“勇気ある決断”の主人公が白いチョゴリに黒いチマの女性であることに、世論の視線はいっそう集まった。

韓国社会の進歩を切り開いてきた人々の人生を辿ってみる[道を探して]の10回目の主人公、チョン・ヘスク(75・写真)前全教組委員長は、そのように“真の教育の大きな師匠”として大衆の中に残っている。
その時から4年間、初の女性委員長として教育改革実践運動を主導した彼女は“非合法反体制”の強硬闘争組織へと追い詰められていた全教組の合法化の“産婆”または“かすがい”と呼ばれる。

「89年5月28日が全教組の誕生日だから、今年は22周年ね。<ハンギョレ>より一才若いのね。その年の2月に<ハンギョレ新聞>の1面に載った「上半期中に全教組結成」という記事は今でも覚えてる。5月に延世(ヨンセ)大で全国2000人余りの教師が集まって結成大会を開いたら、文教部が1527人の労組加入教師を一度に学校から追い出したじゃないの。私も8月初めに解職通知書を受け取った。」

それから8年、閉ざされた校門を開こうと全力投球した彼女は、復職後1年余りの99年8月に教員定年短縮で退任した。「それでもその一ヶ月前に全教組が合法化されて“有終の美”をおさめることができ未練はなかった。」

光州(クァンジュ)錦南路(クムナムノ)で男兄弟のいない一人娘として生まれ裕福に育った彼女の夢は、初めは医師だった。 そのうち突然家勢が傾き母親まで倒れて医大を止めなければならなかった。結婚後、偶然に数学教師採用試験に合格して61年から教師の道に入る。「正直言って“生計型教師”で始めた」と打ち明ける彼女は、子供たちに納付金を督促し成績で順番を決めなければならない担任教師の仕事が嫌で、司書担当を志願し図書館運動も熱心にした。

「誰も維新の恐ろしい刃を避けることができなかった」74年、彼女は当時 全南高校教師だったムン・ビョンナン詩人の代わりに光州地域の高校読書大会指導教師を引き受けるとともに、中央情報部の監視対象として目を付けられる。 それでも様子を伺ったりせずに「たびたび事故を起こした」という彼女の“正義派気質”は、女子高時代に全国体典(全国体育大会)代表にまでなったバスケット選手の経験と共に、日帝時代から左翼系列の民族運動をした母方の叔父チェ・チャンジン先生の影響が大きかった。

70年代から故ユン・ヨンギュ全教組初代委員長と共に光州YMCA教師協議会に参加して民主・民族教育について真摯に考えてきた彼女は、82年教師宣誓事件、83年民衆教育誌事件を体験した後 86年5月、全国5都市で同時に行われた教育民主化宣言に光州地域の公立の教師としては唯一人参加した。87年の民主教育推進全国教師協議会発足時には副会長を務め前面に出た。

退任後もずっと教育現場を駆け回ってきた彼女は、80年の光州抗争を体験して悟った生命平和運動と教育運動の最後の課題である統一運動に深い愛情を注いでいる。 83年チョンファ僧侶との縁で座禅の勉強を始めた彼女は、チョンファ僧侶が入寂した谷城(コクソン)の聖輪寺の信徒会長でありインドラ網生命共同体共同代表を務めている。

「世界史上類例を見ない苛酷な弾圧を乗り越え戦って建設し遂げた全教組の存在それ自体が“生きた神話”だ。」

退任直後に出した『真の教育の叫び』で明らかにしたように、彼女はイ・ミョンバク政府になって再度 解職と脱退の危機を体験している後輩らに、堂々と誇りを失わないでほしいと頼んだ。「教師としての一生はいつも生き甲斐があった」と回顧する彼女は、[道を探して]の連載を通して真の教育を支持してくれた家族と教師同志らと国民に対する感謝を伝えたいと話した。

文 キム・ギョンエ記者 ccandori@hani.co.kr, 写真イ・ジョングン記者 root2@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/schooling/478095.html 訳A.K