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イ・ドンミョン “枢機卿, 私たちの要請で数回パク・チョンヒ極秘面談”

登録:2009-02-19 09:47

原文入力:2009-02-19午前07:35:12
‘キム・スファン枢機卿と私’
‘同年齢’ 民青学連の時の縁…人権運動 全幅後援“
死ぬことは避けられないが…残った人々がやっていかなければ”

←イ・ドンミョン弁護士(右側)が1988年6月4日、17年ぶりに解放されたソ・ジュンシク氏とともにソウル,明洞聖堂を訪問しキム・スファン枢機卿と話している。キム枢機卿は“私たちが何もできなくて恥ずかしい”という慰労の話を伝えた。 天主教ソウル大教区提供

“人は誰でもいつか死ぬから避ける方法はないが…世の中が良い人をまた失った。 残った人々がやっていななければ”
‘人権運動のゴッドファーザー’イ・ドンミョン(87・写真)弁護士はキム・スファン枢機卿の善終の知らせに熱っぽく淡々とした所感を明らかにした。二人はカトリックの神父と信者としてだけでなく、民主化の道を共に切り開いてきた同志として格別の縁を結んだ。

“私たちは1922年生まれ同い年だ。その方が私より誕生日が3ケ月ぐらい先輩だ。晩年に耳も遠くなり歩くのもままならないという話を聞き老化度合いも私と似たようなものだと思いましたね。見舞いに一度も行けなかったのが一番残念で。”

二人の縁は1974年12月イ弁護士がカトリックに帰依(洗礼名トーマスモア)してから本格的に始まった。

“その年の夏、‘民青学連’事件でチ・ハクスン主教が拘束された事態に際し、明洞聖堂で篭城する神父たちを見に行ったが、宵の口薄暮に白い司祭服にロウソクのあかりを持って聖母銅像の前で示威を行う神父たちの姿が天上から降りたように偉大だった。今でも忘れられない場面だ。”

その日のロウソク行列はその年9月の正義具現司祭団の発足につながった。イ弁護士はキム枢機卿と初めて対面した瞬間をよく思い出せないが自然に交流が続いたと話した。カトリック信者で彼と人権弁論活動を共にしたユ・ヒョンソク弁護士の勧誘も大きな影響を与えた。79年当時天主教正義平和委員会(正平委)委員長だったユ弁護士の推薦で‘委員’になったイ弁護士は82~87年まで人権委院長を引き受け猛活躍した。

“明洞聖堂枢機卿室でほとんど住み込んでいたような時期でしたよ。私たちを全面的に信じてくれていましたからね。私たちの要請で三,四回ほど大統領府を極秘訪問しパク・チョンヒと非公式面談をしてきたこともありましたから。”

そのように二人は“呼称を呼び合う必要もなく会えばそのままいつでも対話が通じるほど”互いに好む知己として過ごした。

キム枢機卿は82年、イ弁護士の還暦記念文集出版記念式の時、喜んで参加して祝賀したし、2003年に発刊された伝記<トンミョン おじいさん>にも祝辞を書いてくれた。“私が万一勲章を与えることができるならばこの方々(人権弁護士)の胸の上に大きくて美しいのを付けたい。”

86年‘5・3仁川労働者デモ’事態で手配中のイ・ブヨン氏を助けたという容疑でイ弁護士が8ヶ月間収監中であった時も、キム枢機卿は二回も獄中面会に来て彼を慰めた。

“一番最初に弔問に行かなければならなかったのに…からだの具合が悪くて一人では出ていけなかった。”

収監の時にかかった心臓病で手術をした後、今でも各種の病気に苦しめられているイ弁護士は何度も「本当に良い両班」だったと繰り返して言った。彼は18日夕方、後輩弁護士たちと共に明洞聖堂追慕ミサに参加した。

H6文・写真キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/society/religious/339722.html

原文: 訳J.S