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‘カダフィ官邸’どんな所? 1986年にも被爆…養女 失う

登録:2011-03-22 10:55
https://www.hani.co.kr/arti/international/arabafrica/469088.html

原文入力:2011-03-21午後07:49:58(890字)
補修せずに‘反米象徴物’として活用

カン・テホ記者

20日(現地時間)多国籍軍2次空襲の主要ターゲットとなったリビア国家指導者ムアマル・カダフィの官邸であるパブ アラジジヤは、1986年米国の攻撃に続き今回2回目の爆撃を受けた。

執務室、行政建物、家族らの宿舎、警護部隊などの軍事施設から構成された複合団地 アラジジヤは、86年に米軍がカダフィ除去を狙い爆撃し、一部の建物が大きく破壊された。当時カダフィは15ヶ月になった養女を失い、その後こちらの破壊された建物を爆撃を受けた状態をそのまま維持し‘抵抗の家’と名前をつけ反米の象徴物として活用してきた。今回の空襲ではミサイル1発が行政建物と呼ばれる所に落ち、軍事施設からも煙が広がった。

カダフィはベドウィン族固有の遊牧民テントを宿舎として使っていると知られたが、今回の攻撃で破壊された施設はこのテントから約50m程 離れたところと知らされた。

多国籍軍は今回の官邸攻撃がカダフィを直接狙ったものではないと明らかにしたが、カダフィとしては極度の身辺威嚇を感じざるをえない。多国籍軍の初日攻撃直後、カダフィは国営テレビに電話をつなぎ 決死抗戦を確認する演説を行っただけで公開の席には姿を現していない。彼は反政府軍との交戦過程でも一貫して首都トリポリに留まっていたものとみられる。

しかし多国籍軍攻撃以後にはトリポリ地下壕以外に他の地域に移った可能性も考えられている。多国籍軍の空襲直前までカダフィ親衛部隊は反政府軍拠点のベンガジを除く大部分の都市を再奪還した。カダフィの故郷である中部シルトやカダフィが成長した都市であり要塞化した南部の小都市サブハなどがカダフィの潜伏可能性がある都市に挙げられている。

カン・テホ記者 kankan1@hani.co.kr

原文: 訳J.S