原文入力:2011-02-24午後01:29:24(4173字)
春の気配がムズムズと上がってくる昌原市鎮海(チネ)の旧都心 4.5km
イ・ビョンハク記者
←鎮海 帝皇山公園 鎮海塔の展望台。 長福山からシル峰(熊山)に続く壮快な稜線と鎮海市内の姿、そして海側の景色を一望に鑑賞できる所だ。桜の花と海軍の都市、慶南鎮海。 昨年7月の行政区域統合で昌原市鎮海区になった。花の陰に隠れれば鎮海の本当の姿がよく見えない。35万本の桜と海軍部隊の影の内側に鎮海の見どころが隠れている。鎮海は1912年、日帝が建設した軍港都市だ。日本によって日本のために建設され日本人だけが暮らした都市、鎮海め旧都心を見回す。日帝の野望も、そして恥辱も歳月が流れれば文化遺産だ。一面に散在する日帝の痕跡に息がつまってくる頃、白凡先生と李忠武公が現れ足をしっかりつかんでくれる。鎮海公設運動場から出発し、中園八叉路(中園ロータリー)と帝皇山・余佐川(ヨジャチョン)を経て再び八叉路に戻る。
運動場交差点に車を駐め中園八叉路に向かって歩く。道路も住宅地も全て日帝時に作られた姿そのままだ。重ね軒屋根の2階家が並んでいるが、全て日本式家屋の痕跡だ。これらの家に入った商店は多くが海軍軍服商店、船体材料店、部隊マーク・名札店、軍服専門クリーニング屋などの部隊関連の商店だ。覆蓋された余佐川に造成された彫刻公園①を見て下流側に歩く。とんがり屋根の洋館②楼閣が残っている食堂(新修養会館)建物は1920年代に建てられた中国式建物だ。南北に2棟が建てられ料亭として使われたと言うが、現在は一棟だけが残っている。道の向い側に古い中華料理店 元海楼③がある。6・25時の中国共産軍捕虜出身チャン・某氏が1950年代中盤に、栄海楼という名前で開業した中国料理店だ。その後、今の主人(華僑)が取得し同じ名前で運営してきたが6年前に名前を元海楼に変えた。
日帝強制支配期の計画都市 鎮海
日本のために日本によって建設された日本人だけが暮らした都市
通りにはすべて桜並木が続く。日帝は都市を作る時に10万余株の桜を軍港と市内の道路に植えたという。光復後、日帝残滓だとして大部分を切ったが、鎮海王桜の原産地が済州道であることが知らされ1976年以来、再び桜を植え始めたという。
南園ロータリー側に歩く。覆蓋された余佐川の左右に立ち並ぶ家々の中に難なく日本式家屋の痕跡が見られる。余佐川は一直線でまっすぐに伸びる小川だ。それには理由がある。日帝は軍港の併設都市として鎮海市を建設した当時、日本海軍軍艦旗(日章旗)を真似て放射状に通りを画したという。中園ロータリーを中心に八本の道路を建設し、南北に南園(ナムォン)・北園ロータリーを作った。この時に曲がりくねって流れていた河川を直線化し、旗竿を形象化したと知られている。鎮海区文化観光解説士のハン・スイク(76)氏は「当時、新しい都市には日本人だけが暮らすようにし、我が国の人々は慶和洞など郊外地域に押し出された」と話した。
←南園ロータリーの中央に立てられた白凡の親筆詩碑。1946年南道巡視の時、鎮海に訪れ残した文(李忠武公の詩‘陣中吟’の一節)を彫った。光復後に帰国した白凡、南部地域の中で最初に訪問
南園ロータリーの中央にそびえ立った石柱に出会う。白凡 金九先生の親筆を刻んだ石碑④だ。李忠武公が作った憂国詩‘陣中吟’の一部分‘誓海魚龍動/盟山草木知’(海に誓えば魚と龍が動き、山川に誓えば草木が意を理解する)を刻んだ。白凡が光復後に帰国し、南部地域巡視の際の最初の訪問地として鎮海を訪れ海軍将兵を励まし残した文だという。
←1912年 ロシア式に建設された鎮海郵便局旧都心の中心、中園八叉路に行く。日帝時、このロータリーを中心に建てられた警察署・郵便局などの官公庁と金融機関らの跡が残っている。1913年に開店した韓国商業銀行鎮海支店跡(ウリ銀行の場所)⑤と鎮海警察署跡⑥を見て旧市立中央図書館(現 鎮海文化院)⑦に出会う。文化院前に記念物が一つある。一時、全国に建てられたがほとんど撤去された‘10月維新塔’(1973年)だ。こういうものまで生き残り遺産になりつつあるという思いに苦笑いする。郵便局の建物は1912年に建てられ2000年まで鎮海郵便局⑧庁舎として使われたロシア式建築だ。郵便局ができたことから周辺の洞の名前が通信洞になった。
帝皇山に上がる階段横には日帝時に掘られた防空壕⑨(入口閉鎖)がある。鎮海塔⑩(高さ28m)が聳える帝皇山公園(海抜90m)に上がる。‘1年階段’と呼ばれる365ヶの段があるが、この頃はモノレール(2009年設置)に乗って上がり降りする。片道2000ウォン。軍港祭の時は主に年配の方々が多く利用するというが、普段の週末には若いカップルが主流だ。
若い二人連れたちは鎮海塔で鎮海発掘遺物と昔の地図などが展示された2階の博物館を見物し、エレベーターで展望台に上がり壮快に広がる長福山塊と市街地、海側の展望を鑑賞しながら騒いでいる。鎮海塔の場所には日帝強制占領期間に露・日海戦勝利記念塔が立てられていた。光復後、それを壊し軍艦を象徴する9階建ての塔をたてた。塔の表札板‘鎮海塔’は朴正熙の文字だ。
帝皇山はみみずく山 あるいはツオム峰とも呼ばれる。「みみずくが羽ばたく形で、風水地理上 山の左側に皇帝が現れる山です。みみずくの頭に当たる部分に日帝が頭を取り除き自分たちの勝利記念塔を立てたと言います。」(解説士 ハン・スイク氏)
住民たちが鉄棒をしたりフラフープを回したりする体育公園を経てセメント舗装道を歩いて下って行く。開かれた鉄門2ヶ所を過ぎる。帝皇山は日帝時から海軍の通信基地があった所だ。村道に入り込むと風は静かで日差しは暖かく、すでに春の気配が感じられた。南山小学校横の山の斜面で手の平ほどの畑を作っていた年配の方に出会い しばらく休む。「サンチュ植えれば何日もしないで(芽が)出てくるよ。3月になればサクラもつぼみがふくらむしね。」
‘大きな夢を育む創意的な子供’を育てる南山小学校を過ぎムハクマンションそばで鎮海希望の家(希望院)に入る。1946年にイ・ヤクシン牧師が設けた孤児院で、6・25時には230人にもなる孤児たちをこちらで世話したという。鎮海の近代文化遺産に愛着を持ち、観光活性化の先頭に立っているキム・ヒョンチョル(57・金氏博物館長)氏は「現在は空いている希望院旧礼拝室を、6・25当時の資料と物品を展示する‘避難暮らし博物館’を作る計画」と話した。希望院そばの世宗子供の家周辺は、日帝時に神社と管理舎があった所だ。
鎮海南部教会側に道を渡り、建物と庭園など古の姿がそっくり残っているという日帝海軍病院長官舎⑪に出会う。原形がよく保全されており近代文化遺産に名前を連ねる家だ。今は食堂(ソンハクコムタン)として使われている。日本式2階建て住宅⑫が7~8軒続くミファ美容室・黄海堂印判社を過ぎ、またモノレール キップ売場前を歩き中央市場へ向かう。 週末には随所に制服を着た海軍兵士たちの姿が眼につく。中央市場⑬は鎮海西部商圏を代表する常設市場であるが、衣類商店街も地下刺身料理屋らも雰囲気はやや寒々しい。旧鎮海市庁(現 鎮海区庁)と行政機関が東部地域に移転し商圏が衰退しつつあるためだ。
←1926年 鎮海~昌原線開設時に建てられた鎮海駅舎“この道もロータリーもみんなウェノムどもが造ったんだよ”
ネットカフェ・カラオケ・撞球場と携帯電話販売店ばかりが並んでいる和泉商店街を通り鎮海駅に行く。鎮海駅舎⑭は1926年鎮海~昌原線が開設され建てられたもの。当時の姿そのままだという。昔の駅前旅館の感じが出ている‘深夜オンドル 昼夜温水 忠武旅人宿’看板を背にして余佐川上流側に上がる。上流側は、覆蓋をせずに水の流れに沿って木版を敷き散歩道を作った。欄干に沿って李忠武公の詩と鎮海の昔の写真、地名の由来説明版などが懸かっている。⑮
鎮海女子中高の前をすぎる。90年の歴史を持つ鎮海女子高の運動場では学校アーチェリー選手たちの練習が真っ最中だ。標的を見つめる学生たちの目つきは鋭いが、指導する先生は不満そうな表情だ。「そうじゃない。初恋に心が奪われたように標的に集中して滑らかに指を引き寄せろって言うんだ。」
←ウォーキング メッセージ桜並木の両側に並んだ学校前の街を歩き‘米顧問団’部隊の前を過ぎ李舜臣将軍の銅像(16)が立つ北園ロータリーに達する。1952年に建てられた我が国最初の李忠武公の銅像だという。将軍は毅然として海を眺めて立っているが、銅像の後のコンビニ前に一人の年配の方が座って休まれている。「この道もロータリーも、みんなウェノムどもが造ったんだよ。悪い奴らだが、他のことは分からないが、ウェノムどもは道路だけはきれいに造ったな”‘ウェノムども’が造り行き来した道を歩いて再び‘ウェノムども’が掘った余佐川水路を渡り中園ロータリー側に歩く。
←ウォーキング マップ中園八叉路でウォーキングを終える前に立ち寄る所がある。旧 白黒茶房(17)だ。当時、白黒茶房と言えば知らない人がなかったという鎮海の名所だ。1955年に開業したカルメン茶房をユ・テンニョル画伯が取得し、60~70年代の鎮海文化広間の役割をきちんと果たした古典音楽喫茶だ。今は娘のユ・ギョンア氏がピアノレッスン・演奏空間としている。毎月、第一・第三土曜日の夕6時に各々音楽鑑賞会とピアノ演奏会が開かれる。中園八叉路には日帝時には樹齢600年の榎が一株あったという。木も消え、その場にできた噴水台も撤去された。今は軍港祭行事の中心舞台として使われている。ここまで4.5kmほど歩いた。
鎮海(昌原)=文・写真 イ・ビョンハク記者 leebh99@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/465092.html 訳J.S