原文入力:2011-02-09午前10:34:05(3058字)
←ソウルのある人材市場で労働者たちが仕事を探している。
旧正月連休を目前に控えた去る1月28日夜11時頃、鍾路警察署。夜12時の報告時間を前に報告するに値する事件がなく、がっかりして交通調査係を訪ねたところ、お兄さんが「ついてるね、たった今 飲酒交通事故に窃盗事件が入ってきた~」という話をした。「車を盗んで乗り事故を起こしたのですか?」と尋ねたところ、お兄さんは「ウン、路上生活者だが留置場へ行きたくてやったと言うんだけどね。ちょっと後で来てみな。」と答えた。刑事係に立ち寄り再度訪ねると手錠をかけられたイ・某(44)氏が頭を下げたまま座っていた。
ところが全然ホームレスのようには見えなかった。髭そりをちょっとしなかったくらいで、顔もすっきりしていたし、パッドジャンバーにジーンズを身につけていた。頭には櫛が通っており、膨らんだカバンを持っていたが‘トミー・ヒルフィギュア’というブランド品だった。あたふたと事件の経緯を取りまとめ彼に視線を向けるとA4用紙いっぱいに英語で落書きを書いていた。僅かな英語の実力であらまし見たところ、自身の心境を書いたような完結した英語の文章だった。‘この人、何者だろう? いったい?’報告しても記事作成してもとにかく気になった。いったいこの人はなぜ車を盗み、何の理由があって留置場に行きたかったのか。いつのまにか集まってきた他社の修習記者たちがためらっている間に尋ねた。
"先生、車をどうして盗んだのですか? ホームレスなんですか?"
"記者さんですか?"
"はい、記者です。先生、教えてくださるのですか?"
"政治的に言うならば、旧正月を控えた日雇い労働者の悲哀とでも言いましょうか? そんなことが記事になるんですか?"
瞬間当惑した。
"ア はい、記事になります。あのーハンギョレです"
"ア そうなんだ。私は昔、ハンギョレの記者たちに英語も教えたけど…"
一層当惑した。ところが残念なことに「調査しなければならないので終わり」というお兄さんの話で外に出るほかはなかった。先輩に報告をした後、再び交通調査係を訪ねると、イ氏はすでに留置場に行っていて居なかった。お兄さんに「あの人はどうなったか」と尋ねると、「‘住居不定’で明日拘束令状を申請するだろう」と言った。翌日、実際令状が請求され、‘住居不定’である彼は30日にソウル中央地裁で行った実質審査を経て拘束された。
まだどうして車を盗んだのかに対する疑問が解けず、30日昼に再び鍾路警察署を訪ね、イ氏に面会を申請した。すでにハンギョレという名前を売ったからか、イ氏は面会に応じてくれ、「どうして車を盗んだのですか?」と尋ねると、彼は「理由もなしにする人がどこにいるか?」と言って、数奇な理由について淡々と話し始めた。
彼は高等学校の時に少年院へ行ってきた以後、検定試験で高等学校を卒業し軍隊を除隊した後の1990年、23才で米国へ留学に出た。4年の留学ビザが終わり未登録不法滞留者として暮らしていたが2001年に飲酒運転で事故を起こし、911テロ以後に強化された移民法のために米国生活13年目の2002年に韓国へ強制送還された。しばらく茫然自失で過ごしたが、米国生活で積んだ英語の実力を元手に米軍部隊契約職軍務員、英語学院講師などをしながら安定した生活を送っていたといった。
ところが、2005年に結婚した以後、事業に手をつけ失敗し アルコール依存症になり、2007年に離婚した後放浪、2010年から日雇い労働を始めることになった。済州道にある養魚場で働きペーチェット病という珍しい病気に罹り病院に入院した後、難治性疾患者の憩いの場で過ごしたりもし、昨年12月にソウルに上がってきて箱部屋、漫画喫茶、サウナなどを転々として再び建設現場で仕事を始めた。
とりわけ寒く建設景気不況で仕事も減った今度の冬は‘土方初年兵’である彼には耐えがたかったと言った。明け方4時に起き 5時に東大門人材事務所で仕事をもらい、城南にあるアパート現場で仕事をした後、ソウルに戻り 漫画喫茶やサウナに入る時間が夕方の8時。日当7万ウォンから手数料7千ウォンを払い、彼に戻ってくるお金は6万3千ウォン。金も金だが、こういう人生に何の意味があるのかという思いだったと話した。その上に仕事は一日おきに回ってきたし、仕事のない日は昼間から酒を飲むほかはなかったと。
犯行を犯したその日も仕事がなく、一人で焼酎3本にマッコリ3本を飲んで、生きたいと思う気持ちも、何の希望もない状態でエンジンがかかったまま道端に停まっていた車を発見して「こんな状態なら車を盗んで留置場にでも行こう」と決心することになったと。「後悔しているのではないか」という質問に対して、彼も「どうしてエンジンがかかった車がその場に停まっていたのか分からない」として言葉をつまらせた。
少しは後悔しているようで「英語も得意で、年齢もそれほどでないのに、やり直してみるつもりはないか」と尋ねたが、「新たに機会が与えられるといっても何も自信がない」と言った。「体調も良くなく、与えられた条件があまりにも不利で希望を考えられる状況ではない」として、「別の見方をすれば社会脆弱階層だが、社会が私のような人をどのように処理するのかが気になる」と話し全てを諦めたような表情になった。
20分余りの面会を終えながら「名節なのに思い出す人はいないのか」と尋ねると、「名節なのに親を思わない子供がどこにいるか」と言い、「連絡せずに1年を過ぎた八十の老母が思い出される」と言った。状況が難しくなるほど母親に連絡する意欲がわかず、連絡を絶って過ごすほかはなかったという彼の目がしらが赤くなるのを面会室の4重ガラスの向こう側に見ることができた。どうしても差し入れを断るイ氏に勝てず、「助けが必要になったら連絡して」という守りがたい約束を名刺一枚に書き警察官に渡し面会室を出た。
イ氏のおかげで31日明け方‘土方初年兵’が多く集まるという新設洞人材市場でイ氏のようにワケのある多くの人々に会い取材した。工場の社長から中小企業職員まで、少し前まで安定した稼ぎのあった人々が多かった。また、イ氏のように一日仕事を求められず重い心で引き返す人々も多かった。零下12度の天気はどれほど寒かったろうか。
旧正月連休を翌日に控えた1日に中継された“大統領との対話”も、几帳面に目を通してみた。ふと‘あれこれ全てやってみたので良く知っていると言った大統領は、土方もしてみたことがあるのだろうか?’、‘大統領は果たしてこのように訳のある多くの人々が一日の働き口も求められずに酒を飲み、留置場に入るために車を盗んだという理由を知っているのだろうか?’という気がした。だが、残念なことに 大統領との対話にはイ氏が話した‘社会的脆弱階層’をどのように‘処分’するのかに関する対策は出てこなかった。
正月連休の後、寒さが緩んだ。明け方、人材市場に集まった人々が少しは多くの仕事を分け合えたことを期待してみる。
パク・テウ記者
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/462470.html 訳J.S