原文入力:2011-01-13午前08:25:38(2486字)
キム・テギュ記者
←イ・ドンミョン弁護士が1987年5月、民主化運動で手配中の民主統一民衆運動連合事務局長のイ・ブヨン前ハンナラ党議員を匿った疑惑で拘束起訴され、裁判を受けるために法廷に入っている。イ・ブヨン前議員を匿った人は後日 国家情報院長となったコ・ヨング弁護士だったが、イ弁護士はその事実を明らかにせず代わりに法廷に立った。
イ・ドンミョンの人生
民青学連を契機に維新に対抗し、人権弁論の道へ
手配犯を匿った疑惑で代わりに獄苦を受ける
“アー、やるべき仕事ができたのでとてもうれしい。緊急措置違反事件が果たして違法か否かを法廷で問い詰めることができるようになったじゃないか、弁論をまたできるから。働き口を失いまた見つけたという心情で熱心に弁論をしましたね。独裁者と戦い法廷の犠牲となった人を弁論することがうれしかった。一生でその時が最も法曹人らしく生きた。貴重な人生だったよ。”
←イ・ドンミョン弁護士(前列左から2人目)が1988年5月14日、印刷されたばかりの<ハンギョレ新聞>創刊号を見て感激している。イ弁護士の右側で新聞を広げている人はハンギョレ新聞社初代社長を務めた故ソン・ゴンホ先生だ。イ・ドンミョン弁護士は1974年に民青学連事件裁判を見守り、今後は民主化運動をして拘束された学生たちの弁論をしなければならないと決心した当時を生前このように回顧した。当時、彼の年齢は52才。判事生活を経て弁護士開業をして11年、安らかな老後を設計する年齢で彼は荒野に出た。彼が年齢50にして知ることになった‘天命'は人権弁論だったわけだ。
イ弁護士は当時、時局事件弁論を専門的に担当した30代の若手弁護士3人衆(ファン・インチョル-チョ・ジュンヒ-ホン・ソンウ)にとって強固な支えだった。政権が種々の弾圧でこれらの事件担当までを遮断した1975年、イ弁護士は「人民革命党再建委事件が捏造された」ものであることを暴露したキム・ジハ詩人事件を始め、本格的に人権弁護士の道を歩むことになる。3・1民主救国宣言事件、リ・ヨンヒ、ペク・ナクチョン教授の反共法違反事件、東一紡織・ウォンプン毛紡 示威事件、YH労組新民党舎籠城事件などの弁護をイ弁護士と3人衆が共にした。しかし当時、彼のニックネームは‘有罪弁護士’だった。彼が引き受けた数多くの時局事件で司法府が全て‘有罪’判決文を書いたためだ。勝とうとしても勝つことはできない戦いだったが、彼は馬鹿正直に突き進んだ。
←市民社会の代表たちと共に1992年10月13日、ソウル、鍾路区、平洞のキョンウォンビルで‘民主大改革と民主政府樹立のための国民会議’銘文掲示式典をしている様子。
篤い天主教信者であった彼は2004年<京郷雑誌>とのインタビューで「私の信仰は‘正義実現’と関係があります。維新独裁をした朴正熙氏と戦う、彼が死んだ後には全斗煥氏と戦ったが、その時 信仰生活をもっとも熱心にしました」と話した。朴正熙政権が倒れ、ようやく良い世の中がくると思ったがイ弁護士の人権弁論は‘正義社会実現’を標ぼうした全斗煥政権でも休むことがなく、ついには1986年5・3仁川事態事件で手配されたイ・ブヨン民統連事務局長を匿った疑惑で収監身となった。しかし実際にイ氏をかくまった人はコ・ヨング弁護士であったので、身代わりとして監獄生活を厭わなかったわけだ。
当時、イ局長の逃避を助けたキム・ジョンナム前大統領府教育文化社会首席は還暦を遥かに越えた元老人権弁護士であるイ弁護士を政権が拘束まではしないだろうと見てイ氏に「もし捕まったらイ・ドンミョン弁護士が匿ってくれたと話そう」と話を合わせておいた。しかし、予想ははずれ、イ弁護士は8ヶ月間にわたり獄苦を体験しなければならなかった。キム前首席は「年齢のせいもあるだろうが、その後 頻繁に病気をするのを見ながら申し訳ない思いで胸がハラハラして仕方なかった」と述懐した。
←2004年10月11日、ソウル、太平路の韓国言論会館で開かれた天主教正義実現全国司祭団創立30周年記念式に参加したイ弁護士(右側二番目).キム・テギュ記者 dokbul@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/458461.html 訳J.S