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弥勒寺塔遺物は 百済史 ‘パンドラの箱’

登録:2009-02-03 09:36

原文入力:2009-02-01午後10:46:56
舎利奉安銘文金板など500点出土
‘薯童謠(ソドンヨ)説話’ 虚構論議など大きな波紋

ノ・ヒョンソク記者,シン・ソヨン記者

←益山,弥勒寺西塔心柱内から発見された7世紀百済の武王代の舎利壮厳具は百済末王室史の断面を見せてくれる‘タイムカプセル’に違いない。写真の上から金製舎利壷内部を撮ったエックス線写真と金製舎利壷. 銀製冠飾と金製小型板など副遺物,舎利奉安記金版,これら遺物が出てきた西塔の1階基壇部全景. シン・ソヨン記者viator@hani.co.kr,国立文化財研究所提供

1400年留まっていた塔内の小さな遺物群が歴史に埋もれた百済王朝の生き生きした裏舞台を生き返らせた。
国立文化財研究所が7年かけて解体復元中の全北,益山の百済巨刹である弥勒寺西塔芯柱石内から先月不意に発見された7世紀武王時の百済舎利壮厳具(釈迦,高僧の火葬した遺骸を入れた容器とこれを飾る記念品)遺物が投じた波紋は想像を超越している。精巧な西域風模様で飾られた金製舎利壷と金板上に単一の百済金石文遺物として最大の193字の銘文を刻んだ私利奉安銘文記,織物に包まれた小さい刃物(陶磁),銀製冠飾,施主となった臣下らの名前,職位が彫られた金製小型板などの遺物500点余りは百済末の歴史空白を解く‘タイムカプセル’とも言える。一旦刹の創建経緯,施主者関連記録が新しくあらわれたが、その裏面に隠れた歴史的意味と争点は無尽蔵だという評価だ。

舎利壷など未公開遺物多く
百済史研究に相当な影響を与えそうだ

◇善花公主は実存人物であろうか?
=横15.5,縦10.5cm大の金板銘文記録は伽藍と塔を発源した武王の王侯が当時百済朝廷の最高位職である佐平の沙宅積德の娘であり彼が財物を捧げて伽藍を組み立て639年塔に舎利を奉安したと書いてあった。<三国遺事>に武王の求愛で結婚した後、弥勒寺を発源したと記録された善花公主の名前はなかった。武王と公主の恋愛談を入れた薯童謠説話は虚構という主張がより一層説得力を得ることになったわけだ。もちろんその裏面に暗示された歴史的真実を無視することはできない。現在学界の論議は善花公主が実存した武王の王妃だったとの説話が虚構ならば、どのようにして薯童謠の恋愛物語が出てきたのかに集まっている。

まず前者の論議と関連して、ノ・チュングク啓明大教授など一部学者たちは沙宅積德の娘の百済人王侯が、初めての王妃であった善花公主の死後選ばれた継妃と見なければならないという仮説を提示した。

興味深いことは武王の長男で百済最後の王になった義慈王と銘文に出てきた王侯との関係だ。百済の友好国だった古代日本史書<日本書紀>には義慈王が641年に即位した後、国主母の母后が亡くなるやその実子である翹岐弟王子と妹,主要高官40人余りを追放する政変を起こしたと記述されている。断定することはできないが、これは金板銘文に出てきた王侯が義慈王の実母ではなく、彼とは終始政治的対立関係だったという可能性を内包する。義慈王が武王晩年の632年に一歩遅れて跡継ぎになったのもそれと無関係ではないという解釈だ。

こういう論拠の一部には今は無き弥勒寺中塔と東塔の場所に先王妃であった善花公主の発願文が埋められたという推定も出る。しかし70~80年代に研究所などが寺の跡地を全面発掘した結果、他の舎利記銘文遺物は出てこなかった経緯があり考古学的に善花公主の名残が見つかる可能性は希薄に見える。今後も善花公主実在論議は終わりのない推論と仮説だけを産む公算が大きい。歴史学界の一部では弥勒仏思想を百済と共通した国家理念としていた新羅が統一後、意図的に民心統合のために弥勒仏に基づく薯童謠説話を脚色したのではないかという意見が出たりする。古文書研究者のユン・ソンテ東国大教授は「新羅人らがなぜ新羅と最も敵対的だった百済武王の時に善花公主とのロマンスがあったと後代に伝えることになったのか当代人の思考を分析する必要性が大きくなった」として「今回の発見で薯童謠はむしろより一層豊富な歴史的可能性を得たと見なければならないだろう」と話した。


◇初めてあらわれた百済王室の母方の親戚関係

=学界は舎利奉安記銘文で百済王室と母方の親戚関係に対する言及が初めて出てきたという点にも注目している。特に王侯父方の姓氏と言及された沙宅氏は中国隋の史書にも百済の8大国姓氏中最初に言及された有力一族。既存学界でも首都であったサビ(扶餘)地域の代表的政治勢力として沙宅氏を挙げたが、今回の銘文発見で沙宅氏一族が王室政治も左右した百済末期最大の権門勢家だったとの点が明確にあらわれたわけだ。1948年扶餘で発見された引退した高位官僚である沙宅智積(沙宅積德の直系親族と推定)の仏心発願が書かれた沙宅智積碑や<日本書紀>に多く見られる沙宅氏姓を持った高官らの日本朝廷訪問記録などもこれを後押しする。

同時に出土した18点の金製小型板の一部には‘中部(百済首都の行政単位)の德率を(高位官職)持律が金塊を布施する’など、官職と名前,行政区域を書いた銘文などが確認された。舎利を奉安する時に入れたと見られる銀製冠飾,小さい刃物などの布施物も出てきた。王室,貴族たちの当時の舎利信仰と意識の断面を把握することができるようになったのだ。カン・スンヒョン国立伽耶文化財研究所長は「王侯と高位級臣下たちが一緒に一生懸命に塔に布施したということは、当時の中国王朝の場合のように弥勒寺建設が沙宅氏をはじめとする主要政治勢力らの統合を意図した政治的プロジェクトの性格を持っていることも立証する」と分析した。また金板銘文に王の長寿を祈って‘大王陛下’という呼称を書いたことは、百済が中国南北朝時代以来自主的天下観を堅持してきたという証拠として注目される。

◇国際感覚がずば抜けた文化強国百済

=弥勒寺舎利壮厳具遺物は編年可能な百済工芸美術史の絶対基準作としても価値が多大だ。1995年扶餘,場岩面舍利龕,2007年に発見された扶餘王興寺の6世紀舎利箱に続いて相次いで百済舎利の系統が一目瞭然に把握されたことは奇跡に近い。曖昧だった百済工芸史系譜が把握されただけでなく百済文化の国際性もまた明快に浮び上がったという評価だ。

全面をレンゲ紋,忍冬,唐草紋と魚卵模様の魚子紋(連珠紋)でいっぱいに満たした高さ15cmの金製舎利壷は西域,中国の紋様式を独創的に再解釈した百済工芸の精髄。武寧王陵の銅鐸銀杯,王興寺舎利,扶蘇山出土金銅光背などに見られるレンゲ模様,魚子紋の様相が一貫して眼に触れる。また争点の一つであった近隣王宮坪石塔出土舎利壮厳具の年代問題も今回発見された舎利壷と模様がほぼ似ているという点から百済系統であることが確証された。

工芸史研究者のチュ・ギョンミ プキョン大研究教授は「魚子紋を容器全面に彫る技法はペルシャから由来した典型的な西域技法で中国南北朝,隋唐時代に大流行した」として「器形の安定性や西域系統の唐草紋,忍冬紋紋とレンゲ紋を調和させた構成美などは当時の百済工芸美術だけの特徴」と分析した。イ・クィヨン国立文化財研究所美術文化財研究室長も「魚子紋模様は統一新羅時代に流行したと理解していたが、三国時代舎利器にこのように完全に表現された事例は初めて見る」として「百済が西域の最新美術流行を速かに吸収していたことが分かる」と話した。金石文研究者らも金板銘文の文字が中国南北朝にかけて隋唐代に流行した当時最新流行の写経体(仏教経典を書写するときに書く字体)ということで驚きに耐えなかった。

◇まだ舎利壮厳具の全貌は霧の中

=金製舎利壷は上下に分離できる独創的構造だがエックス線撮影の結果、内外箱の構造であることがわかっただけでまだ内部は開封されていない。少なくない供養物を抱いている銀銅製円形舎利箱もやはり蓋を開けられず、布で包まれた百済貴族らの供養物の小さい刃物(陶磁)の実際の姿も関心事だ。 箱の隙間を満たした状態で発見された数多くの玉に対してチュ・ギョンミ教授など一部工芸史家たちはペルシャ,東南アジア産と推定される輸入真珠という見解を表わし注目を集めている。この他に金塊と推定される一部施主物は質量分析を通じて百済度量衡の秘密を明らかにするものと期待される。キム・ポンゴン国立文化財研究所長は「現在、遺物は大田国立文化財研究所保存科学センターで保存処理中」として「舎利壷などの金属遺物は6ヶ月程度、金属箱や布,刃物など保存状態が悪い遺物は1年以上の保存処理作業を経て公開されるだろう」と伝えた。

◇遺物所蔵先,礼遇を巡る論議も

=国宝級大型文化財である百済舎利壮厳具の発見は厚待人の社会的論議も産んでいる。仏教界の一部では研究所側が塔から舎利壮厳遺物を持ち出す際に僧侶らの移運式を行わないなど宗教的礼遇が不十分だったと反発している。曹渓宗総務院側はこれと関連して、去る1月22日文化財庁に抗議公文書を送った。文化財庁側は「遺物安全と保安のために避けられなかった」と説明したが曹渓宗側は「姓譜遺物に対する礼儀もなしに宝探し式にのみ接近した」と主張している。

遺物所蔵先についても益山市,研究所,国立博物館の間に微妙な神経戦が起きる兆しだ。国立博物館などは遺物管理,保安などの問題をあげて内心で移管を希望する表情だが、益山市側は市民運動を行ってでも発掘遺物を市が運営する弥勒寺跡遺物展示館に誘致したいという意志を強く表わしている。研究所側はこれに対して「直ちに保存処理が至急なだけに舎利器再奉安などを含めて所蔵先問題は塔復元が本格化する時に議論になると思う」として具体的言及を避けた。

一方、毎年10月に薯童謠の恋愛談を再演する薯童祭を行ってきた益山市側は「舎利銘文内容は行事内容に何等影響を与えない」として例年どおり行事を行うという意向を明らかにしている。

ノ・ヒョンソク記者nuge@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/336203.html

原文: 訳J.S