「私たちは今やセウォル号を一生見続けなければなりません。1年12カ月、その痛みを反復しなければなりません」
全羅南道の木浦(モッポ)新港の真向かいにある高下島(コハド)に住む漁村講長、カン・ハソンさん(58)は、今月10日にこのように語り、セウォル号を受け入れる気持ちを表現した。全羅南道の木浦新港に据え置かれているセウォル号の船体は高下島へ移され、2030年末を目途に体験館・記憶館へと生まれ変わる。このことについて2023年12月に開催された住民説明会の際、カン講長は住民と共に「絶対反対」と記された赤いはちまきを巻いて現れ、移転に反対した。カン講長は「その場には遺族も来ていたが、率直に言って悲しい思いをしただろう」と当時を振り返った。
「(2014年4月16日の)セウォル号惨事の時に高校2年生だった娘に『これが国なのか』と問われて、何も言えず涙ばかり流れた」と語るカン講長が反対活動に打って出たのは、「だまされた」と感じたからだ。「高下島に船体を移すというアンケート調査をおこなったにもかかわらず、肝心な高下島の住民には事前に説明しなかったことに怒りを覚えました」。木浦市は2020年7月に市民アンケート(市の人口の5.8%に当たる13092人が回答)を実施し、セウォル号の船体を高下島に置くことに74%が賛成したと発表した。政府は2020年8月に高下島に置くことを決定した。
2024年から遺族、海洋水産部、地方自治体などと共に地域共生協議会をおこなったことで、高下島の雰囲気は少しずつ変わっていった。海洋水産部のセウォル号後続対策推進団の関係者は、「同じ空間にいることさえ不快に感じていた遺族と高下島の住民が、地域共生協議会を通じて互いの苦しみや立場を理解し合うようになった」と語った。かつて高下島の統長を務めたキム・ボンナムさん(78)は「遺族と私たちは、互いに同情する気持ちは同じだ」と語った。「政府には勝てない」という現実論も、「絶対反対」ではなく「地域発展」を求めた理由だ。
木浦は2017年3月31日、セウォル号が木浦新港に一時的に据え置かれた際に「セウォル号」と偶然つながった。2014年のセウォル号惨事の犠牲者が木浦韓国病院に搬送されたことで、木浦が当初から追悼の場となったこと、市民社会団体の活動が比較的活発だったことが、木浦がセウォル号を受け入れることができた要因だった。木浦でセウォル号の横断幕を制作して10年目のキム・ファンソクさんは、「最も苦しんでいる遺族をまたも論争の場に立たせておくことはできなかった」、「木浦で論争することなくセウォル号を受け入れようと思った」と語った。
この流れの中には、黙々とセウォル号と共に歩んできた人々がいる。10日午前11時、木浦市連山洞(ヨンサンドン)の高下大路沿い。「外地」からやって来る車がセウォル号の船体のある木浦新港や珍島(チンド)の彭木(ペンモク)港へ向かう際に通る道だ。痛ましい4月が来たことを告げ、「セウォル号」を訪ねる人々を慰める横断幕がこの日、この場所を黄色く染めた。
10日の横断幕の設置作業を総括した「セウォル号を忘れない木浦地域共同実践会議」(実践会議)のキム・ジェヒョク共同執行委員長は、「毎年4月に横断幕を掲げているので、ここが『追悼の通り』のようになっている」と語った。この日、張った横断幕は84枚。この日は2時間20分にわたり、片側3車線道路で3車線を封鎖。横断幕を張っている間、車のクラクションは1度も鳴らなかった。車線が減る場所で渋滞が発生することもあったが、市民は一人も抗議しなかった。実践会議のチェ・ウンジェ共同執行委員長は「昔から政権に疎外されてきた木浦は、時代の痛みにすぐに共感できた」と語った。