原文入力:2010-07-29午後07:02:23(1545字)
金大中前大統領 自叙伝で キム・ミファ,ハン・ビヤ氏など周辺人物ら品評
金九先生については "時限付きで信託統治 受け入れるべき" 物足りなさ吐露
コ・ナム記者
苦難が必要な時代、彼は苦難の化身だった。詩人 高銀が書いた<萬人譜>の‘金大中’版 最初の一節だ。
金前大統領の自叙伝には<萬人譜>だけに多様な人物に対する評価が含まれている。1924年に生まれた金前大統領は1945年の解放以後に政治生活を始め多くの人に出会った。
激烈な左右対立の中で1947年に暗殺された呂運亨は 「解放空間で民族を救おうと東奔西走した傑出した人物」と評価した。しかし、金前大統領が最も慕った一人は金九だった。 「金九先生は真に愛国者だった。先生を失った国民は偉人の足跡を賛え悲嘆にくれた。」
金前大統領が金九先生を尊敬していた事実は広く知られていた。自叙伝では金九先生を政治家として評価した部分が眼を引く。金前大統領は 「金九先生は独立闘士であり絶世の愛国者だったが、政治家としては惜しい点があった」と評価した。「左右合作議論があった時、先生はその中に飛び込むべきだった…信託統治を無条件に反対するだけでなく、時限付き信託統治を受け入れなければならなかった。」金九先生が5・10総選挙に参加し権力をにぎったとすれば親日派による独裁は防げたと金前大統領は嘆いた。彼が見るには「李承晩大統領の当選は私たちの現代史の悲劇の始まりだった。」
金前大統領は自身を死の淵まで追い込んだ朴前大統領とたった一度会った。 国会議員当選後、1968年の新年挨拶で立ったまま短く挨拶した。朴前大統領は非常に親切で誠意をもって応じた。それだけだった。金前大統領は拉致事件を体験するなど朴正熙政権からあくどい弾圧を受けた。
和解は遅れてやってきた。「歳月が流れ彼の長女 朴槿恵が私を訪ねてきた。朴正熙が亡くなり25年ぶりだった。」2004年8月、金大中図書館で2人は会った。朴前代表は「父の時期に色々と被害を被り苦労されたことに対し、娘として謝罪申し上げます」と謝った。金前大統領は「私はその言葉が本当に有難かった…謝罪は独裁者の娘がしたが、実際に私が救援を受けるようだった」と明らかにした。
金前大統領の‘萬人譜’は逝去直前まで続いた。特に李明博大統領については強い失望感を表わした。「李明博当選者の国政運営が心配になった。過去に建設会社に在職した時の傍若無人式態度を表わした。」自身の一世一代の業績である南北和解政策に逆行したイ大統領に対する不信感も表出した。「大統領候補として私を訪ねてきた時は太陽政策に共感すると何度も話した。彼の話の通り、実用的な人と見て大勢には逆行しないと信じたが…彼は実用の概念を間違って理解しているようだった。」
彼の視線は政治家に留まらない。国際救護活動家ハン・ビヤ氏に対し 「色々な人種の3人の子供を養子にしたということに頭が下がった」と讃えた。コメディアン キム・ミファ氏に対しては 「普段のコメディアンとしてキム・ミファ氏を高く評価したが、時事ジョッキーの資質も相当なもので驚くべきだった」と喜んだ。
金前大統領の‘萬人譜’は 「私のからだの半分が崩れるような心情」という言葉で終えられる。盧武鉉前大統領の逝去に際し、彼は"行動する良心" になれと力説した。
コ・ナム記者 dokko@hani.co.kr
原文: 訳J.S