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[このひと] "韓半島平和が実現すれば、それ以上望むことはない"

登録:2010-07-27 08:04

原文入力:2010-07-26午後09:41:30(1428字)
韓国戦の時、人民軍となり捕虜生活
民族日報など時局事件 苦難も

パク・ジュヒ記者

←パク・チュンソ(82)氏

韓国戦争60周年‘休戦協定日’
眺める統一運動家 パク・チュンソ氏
八十歳 高齢の統一運動家 パク・チュンソ(82・写真)氏に韓国戦争60周年の今年、休戦協定日(27日)を迎える感慨はいつにも増して苦々しい。

"統一までは見られなくとも、6・15共同宣言、10・4宣言を実践する平和定着段階まで見れば、それ以上望むことはありません。その後は我が民族が力を合わせて民族文化の土台の上に正しい国を育てて行くと確信します。"

去る19日、夢陽 呂運亨先生63周忌追悼式に行ってきたという彼が地位争いに欲を出すこともなく生涯を統一運動に献身することになった契機はまさに夢陽の演説だった。

事実、彼は幼い時期に鶏肉、豚肉を食べた記憶がない。ユッケで食べることができる質の良い牛肉ばかりをおかずとして食べた。慶北、醴泉で名の知られた裕福な家の7人兄弟姉妹の5番目に生まれ、誰うらやむこともなく育った。腹がへることが日常だった時期、飢える隣人を見て回るとは思わなかった彼は、大邱大(現 嶺南大)2学年の時、大邱達城公園で夢陽先生の講演を聞き、はじめて目が開いた。「席を立つことができない程、強烈なメッセージを受けました。本当に正しいお言葉でした。我が民族が進む道を鮮やかに見せられましたよ。」

パク氏は直ちに夢陽先生が率いる勤労人民党を訪ね政党活動を始めた。‘金持ちのお坊ちゃん’がいわゆる‘憂国青年’として新たに出発したのだ。1947年、夢陽先生が非業の死を遂げられた後、しばしの間 獄中生活をして苦難にあったが、彼は「自慢できるほどの苦労でもない」として言葉を慎んだ。

そのようにして民族問題を悩み始めた22才の時、韓国戦争が勃発した。北に上がり人民軍として満州まで渡り、巨済収容所で2年間 捕虜として獄で過ごした。彼は当時の惨い記憶を想いうかべながら 「それこそ命拾いで生き返った」と回顧した。

戦後の混乱期には大邱で教師生活をした。当時でも貴重だった自転車を用意して<民族日報>を配達しながら‘民族統一’を夢見た。ところが趙鏞壽社長が‘スパイ’寃罪を着せられ、死刑に処せられ3ケ月で仕事をたたまなければならなかった。おまけに3ケ月間の獄中生活もした。人民革命党事件の時、都禮鍾先生などと親しく過ごし志を一つにしたが幸い災いは免れた。

10余年前に帰郷し定着した彼は相変らず自分一人で統一運動をしている。床屋に行けば理髪師に、食堂に行けば食堂主人の目の高さに合わせて‘統一’を語る。何年か前からは20年間服役し出所した九十歳高齢の非転向長期囚1人を醴泉に迎え家を用意して、‘兄さん、弟’と言いながら暮らしている。
 "戦禍にも生き残り、時局事件の度に周囲にいたが運良く八十を越えた今まで生き残った」というパク氏は「先に逝った人々の持分までみな担っているので、死にたくても死ねない」として笑った。

醴泉/文・写真 パク・ジュヒ記者 hope@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/432151.html 訳J.S