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6・15共同宣言 10年、南北‘陽の光’から‘強風’へ

登録:2010-06-15 08:36

原文入力:2010-06-14午後07:55:21(2952字)
国民-参与政府 共存と交流で軍事的緊張 緩和
MB政府、一方的圧迫…北韓リスクに不安増幅

ソン・ウォンジェ記者、イ・ヨンイン記者

←6・15南北共同宣言以後 南北関係主要日誌.

2000年6月15日韓半島には希望の虹が浮かんだ。南と北の両首脳が55年に及ぶ敵対終息と和解・協力の新しい時代の開幕を世界に宣言した。平壌には100余万市民の歓迎が波打ち、南側国民の95%が第一次首脳会談と6・15共同宣言に支持の意思を明らかにした。それから10年。南北関係は逆流し、6・15宣言はいつの時より危険な誕生日を迎えた。だが、それでさらに6・15宣言が奏でた希望のメッセージは格別の響きを抱かせる。 6・15共同宣言10周年の意味と成果、現実を見て回る。

◇金大中・盧武鉉政府‘新しい道しるべ’

6・15南北共同宣言は韓半島の運命の転換点だった。冷戦と反目、不信を越えて南と北が自らの力で交流と協力、相互信頼と尊重を通じた統一の大原則に合意した。南北首脳は分断史上初めて直接この宣言文に署名することにより、首脳次元の合意履行意志を内外に明らかにした。2泊3日の和気あいあいながらも激しい討論がこれを可能にした。首脳間の出会いと信頼の積み重ねがどんな歴史的突破口を作り出すことができるかを6・15宣言は劇的に示した。

6・15宣言は南北関係発展の起爆剤となった。これを契機に離散家族が定期的に会う機会が開かれた。離散家族の熱い対面は以後、李明博政府がスタートした2008年以前までただの一年も途切れなかった。金剛山離散家族面会所を通じた対面定例化にも歩み寄った。盧泰愚政府が北韓訪問を許容した1989年以後、11年間に1万1985人に止まった南北往来人員は、2000年一年だけで7280人を記録し、開城工業団地稼動などに力づけられ2008年には18万6775人と頂点に至った。

 1998年11月に始まった金剛山観光も6・15宣言以後の迂余曲折の中でも成長土台を積んだ。99年14万8000人余りだった観光客は2007年には34万5000人余りに増えた。もう一つの境界地経済協力事業である開城工業団地も6・15宣言を基点に本格的な準備を経て稼動に入った。2005年に7600人余りで出発した開城工業団地北側労働者は2010年には4万3000人余りに増加した。李明博政府になり南北関係の度重なる悪化中でも最後の支えとしての生存力を誇示している。南北を結ぶ鉄道・道路も新しく開通した。開城工業団地を経て平壌に通じる京義線と金剛山へ向かう東海線が開かれた。このために軍事境界線に各々幅100mと250mずつの南北が管理する通路を磨いた。

 6・15宣言はまた、南北間の軍事的緊張緩和の出発点でもあった。2000年9月の1次南北国防長官会談を始め、交流・協力を軍事的に保障するための軍当局間会談が続いた。2002年6月の2次西海交戦直後に北側は‘ホットライン’を通じて意図的挑発でないという弁明を送ってきた。1次首脳会談の時、設置に合意したこの直通線を通じて南と北は首脳次元の意思疎通を継続することができた。2004年6月には2次南北将軍級会談で‘西海偶発衝突防止と軍事境界線上の心理戦中止’合意がなされた。 2009年11月まで南北間の西海上の武力衝突は再発することはなかった。

  そのように6・15宣言は‘戦争でない平和’、‘分断でない統一’を外勢の影響を抜け出し南と北が自ら夢見て実現に努力するようにさせた‘大胆な希望’の土台となった。南北関係の羅針盤が破局に向かって揺れる今、歴史的道しるべとして6・15宣言の存在理由はより一層明らかになっているという評価だ。
ソン・ウォンジェ記者 wonje@hani.co.kr

◇李明博政府‘視界ゼロ’

"政府は共生と共栄を対北韓政策方向として確立し、正しい南北関係発展を追求しました。"

統一部が李明博大統領の就任2周年をむかえ去る2月に出した<対北韓政策このようにしてきました>というパンフレットの最初のページはこのように始まる。しかし統一部のこういう‘自画自賛’を信じる専門家は殆どいない。

  李明博政府がスタート時から掲げた‘非核・開放・3000’構想は北韓が核をあきらめ開放をすれば10年以内に1人当り国民所得を3000ドルにするということだった。しかし、北韓の一方的な譲歩を前提とした非核・開放・3000は、漂流を繰り返してきた李明博政府の対北韓政策に見るように現実性がなく事実上、用途廃棄されたも同然だと専門家たちは指摘した。だが、李明博政府は南北間共生・共栄の原則と実践方案を盛り込んだ2000年6・15宣言と2007年10・4首脳宣言は‘対北韓バラマキ’として事実上認定を拒否している。

  イ・ミョンバク政府の対北政策が分岐点をむかえたのはキム・ジョンイル北韓国防委員長の健康不安説がふくらんだ2008年8月からだというのが定説だ。この時からイ・ミョンバク政府は北韓体制が短期間内に崩れる可能性があるという‘期待’に陥り始めた。接触と対話を通じて南北関係を発展させようとする努力はあきらめる代わりに、“待つのも戦略”として対北韓圧迫を強化したのはイ・ミョンバク政府の基調から見て自然なことだった。

  端的な例として、2008年7月11日の金剛山観光客パク・ワンジャ氏殺害事件以後、2年近く中断状態を抜け出せずにいる金剛山観光事業に対する政府の対応基調を挙げることができる。統一部は真相究明と再発防止の約束、観光客身辺安全保障などいわゆる3大条件を前面に掲げたが、実際には北韓に現金が入ることを防ぐために政府には観光を再開する意思がないというのが一般的な評価だ。

  昨年8月23日、金大中前大統領の逝去(8月18日)を契機に、北側の特使弔意訪問団が李明博大統領を表敬訪問して一時南北関係が解けるような兆しもあった。 しかし李明博政府は対北韓圧迫政策に北韓が屈服したという認識の下、既存の対北強硬政策をそのまま押し進めた。

 李明博政府のこういう対北認識は天安艦事件に集約されている。先月24日に発表した天安艦に関連した政府の対北対応策には北韓に入るすべての現金と接触を遮断し北韓の‘降伏’を待つという意図が強く含まれている。

 しかし、李明博政府の対北政策は韓国経済の‘北韓リスク’を浮上させるなど、国民の不安感を増幅させているという指摘が多い。イム・ドンウォン前統一部長官は去る10日にあるセミナーで「李明博政府が北韓の政治・経済的不安定、屈服と急変事態を待つという誤った政策で南北関係を梗塞させていることは決して賢明な処置ではない」とし「歴史的転換の機会を認識できず歴史的流れに逆行してはならない」と指摘した。

 イ・ヨンイン記者 yyi@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/425567.html 訳J.S