「遺骨の発掘を決心したのは2013年2月でした。会の結成(1991年)以来の長年の念願だった追悼碑を作り、みんな浮かれていました。その時、韓国の遺族の方に『日本の人たちはこれで運動を終わらせるのか。私たちは遺骨を取り戻して帰りたい』と言われたんです。それを聞いてみんな大きな衝撃を受けました」
第12回リ・ヨンヒ賞の特別賞受賞のために2日に韓国を訪れた「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下、刻む会)の井上洋子共同代表は、今も上気した表情だった。「受賞の知らせは、11月19日『運営委員会』を開催している最中に届きました。長生炭鉱の犠牲者の『遺骨の収集・返還』に向けて、日本人と日本政府がさらに誠意を尽くすよう、韓国の皆さまからの叱咤激励であると肝に銘じ、賞をお受けすることとにしました」
井上代表はこの日午後4時、ソウル孔徳洞(コンドクトン)のハンギョレ新聞本社で行われたリ・ヨンヒ賞授賞式に参加し、「今回の受賞を機に、長生炭鉱事故に対する韓日両国の市民の関心が高まり、近い将来、遺骨が遺族の胸に抱かれて故郷に帰れる日が来ることを期待する」と述べた。
韓国人にはまだなじみの薄い長生炭鉱は、山口県宇部市の床波海岸にあった海底炭鉱だ。1932年に開業し、1938年4月に制定された国家総動員法により「募集」というかたちで動員された安価な朝鮮人労働力で石炭を掘った。宇部地域の中小規模の炭鉱だった長生炭鉱は朝鮮人労働者が多く、「朝鮮炭鉱」と呼ばれた。
長生炭鉱が歴史に名を残すことになったのは、1942年2月3日午前6時ごろにはじまった悲劇のためだ。炭鉱が水没した時、その中で働いていた183人が脱出できずに命を落とした。大半を占める136人(74.3%)が朝鮮人だった。井上共同代表は「事故の起きた日は石炭1000函の供出が必須だった『大出しの日』だったため、会社は安全を度外視して採掘を強行した。その意味で、この事故は『人災』だった」と語った。
しかし、戦争が終わって被害当事者である朝鮮人たちが帰国したことで、事故は忘れ去られる。暗闇に埋もれていたこの事件を掘り起こしたのは、地域の郷土史学者(当時は高校教師)の山口武信さん(2015年死去)だった。彼は1976年、『宇部地方史研究第5号』という地域学術誌に「炭鉱における非常―昭和17年(1942年)長生炭鉱災害に関するノート」という文章を発表する。彼はこの文章で「これは単なる炭鉱非常(炭鉱の存亡のかかった大規模で重大な事故を意味する炭鉱用語)ではなく、日本の植民地政策や人種問題までも含んでいるのではあるまいか」という問いを投げかける。
「刻む会」はこの精神を受け継ぎ、日本の加害責任を否定する歴史認識を克服するとともに、長生炭鉱水没事故の正確な真実を歴史に記録しようとの趣旨で、1991年に発足した。彼らがこれまでおこなってきた3大事業は、追悼碑建設(2013年実現)▽ピーヤ(海底炭鉱につながる排水・排気通路)の保存▽証言と資料の収集と編さんだ。刻む会によると、朝鮮人労働者を「募集」して連れてきた最初の年にすでに、1939年10月の「特高月報」(日帝の秘密警察「特別高等警察」を管轄する内務省警保局が毎月発行していた資料集)に、41人が逃亡したことが明記されている。会社側の資料「長生炭鉱坑外図」には、連れて来られた人々が逃げられないよう強制収容していた建物「合宿所」の存在が記されている。井上共同代表は、「長生炭鉱は日本が犯してきた数々の『強制連行・強制労働』の象徴的存在であると断言できる」と述べた。
決心はしたものの、遺骨の発掘は容易ではなかった。海底に沈んだ坑口を開けて水没した坑道の中に入らなければならなかったため、莫大な資金と時間が必要だった。それでも2月3日に行われた82周年追悼式で、「埋められた坑口を市民の力で開け、遺骨の存在を明らかにしよう」という決断が下された。7月15日から坑口の発掘と潜水調査のための募金活動をはじめた。韓日の市民が積極的に応じ、3カ月で約1200万円が集まった。9月26日には82年間埋められていた坑口を発見して開け、10月26日に坑口の前で韓日の遺族たちが集まって祭祀を執りおこなった。その場で韓日の2人の遺族、チョン・ソクホさん(92)と常西勝彦さん(82)は熱く手を握り合った。その後、10月29~30日に1回目の調査が行われた。井上共同代表は、「この過程で負担のかかる工事を担ってくれる会社(施工業者)とダイバーが現れるなど、いろいろな奇跡があった」と話した。
「刻む会」の粘り強い努力に対し、日本政府は曖昧な態度を示している。福岡資麿厚生労働相は先月5日の記者会見で、長生炭鉱水没事故について「大変痛ましい事故であったと認識して」いるとしつつも、「遺骨の具体的な所在が特定できていない」として、「(国による)実地調査の範囲を超えており、対象とすることは困難」だと述べている。しかし昨年4月には、林芳正外相(現官房長官)が「事情が許せば現地を訪問したい」との考えを明らかにするなど、完全にこの問題を無視する態度ではない。
「ちょうど来年は韓日国交正常化60周年です。長生は調べれば必ず遺骨が出る場所です。両国政府は未来志向を語っているのに、このように遺骨を放置しておいて、どんな未来志向があり得るのでしょうか」。刻む会は、政府の言う「遺骨の具体的な所在」を確認するために、1月31日から3日間にわたって2回目の潜水調査を実施する予定だ。井上代表は「もう2世の遺族も多くはほぼ亡くなっており、生きている人も90歳を超えている」として、「60周年を機に、両国政府が遺骨発掘を共同事業として推進してくれたらと思う」と述べた。