原文入力:2010-03-25午後07:38:56(1527字)
[安重根義士 殉国100周年] 安義士関連‘神話と真実’
‘危局献身’死刑直前の遺墨なのかは不明
チョン・ユギョン記者
真実の反対は偽りではなく神話という言葉がある。誤りが反復された結果、事実として固まり、100年という時間が過ぎていつのまにか誤った事実に根拠を置いた神話が作られるということだ。<白凡語録>を出し白凡 金九先生に対し誤って知らされた事実を正そうとしたト・ジンスン昌原大教授(史学)は‘白凡神話’を打破してこそ白凡が見えると指摘した。彼は白凡が書いたと知られる大胆な銘文である‘烈士祈祷追念文 ’‘柳麟錫追悼祭文’が爲堂 鄭寅普の代筆だったことを初めて明らかにした。
安重根義士に対する誤った‘神話’もまた存在する。多くの学者らが根拠が不明な安重根義士長男のプンド毒殺説を確定した事実として書いている。チェ・ソミョン韓国国際研究院院長はプンドが 「日本密偵によって毒殺されたとすれば、当時の中国言論またはロシア,沿海州のハングル版ロシア語版言論が日本を批判する内容は大書特筆していたので どこでも大きく扱った筈なのに、それについて報道した言論が存在しない」と指摘した。プンド毒殺説は安義士義挙当時、ロシア語通訳人ユ・ドンハ(当時18才)の妹のユ・ドンソンがその息子であるキム・パ詩人にしたという話だが、母親ユ・ドンソンの話に根拠を置いたキム・パ詩人の<安重根とその同僚たち>という文は厳密な検証が必要だ。にも拘らず多くの文献でこれをそのまま引用している。
また別の代表的事例は旅順監獄で安義士に感化され、死刑直前‘最後の遺墨’を受け取ったとして知られる日本憲兵 千葉十七の話だ。千葉は当時旅順関東都督府陸軍憲兵上等兵であり、東洋平和を壊した日本の犯罪に対する断罪の正当性を主張した安義士に感化され、日本に帰った後に通った寺刹 大林寺に安義士の位牌を祀った人物だ。<朝日新聞>記者出身の住職 斉藤泰彦は千葉の話を盛り込み1985年に<私の心の安重根>という本を出した。
この本によれば、安義士は千葉が遺墨を頼んだが一回断ったことを申し訳なく思い思い、死刑執行の5分前に‘為国献身軍人本分, 国の為に命を捧げることは軍人がしなければならないことだ)’という遺墨を書いて渡したと言う。しかし、この遺墨がよく知られたように果たして最後の遺墨であったのかが不明なだけでなく、直接千葉に書いたものではないということだ。
安重根記念事業会のシン・ウニョン博士は「安義士の最後 死刑執行前まで一緒にいた‘看守’とされている千葉は、実際には護送を引き受けた憲兵だった」とし「何より千葉は韓国語を、安義士は日本語を話すことができなかった」と指摘した。また千葉から直接この遺墨を購入したチェ・ソミョン韓国国際研究院院長は安義士遺墨には指が切られた手を落款にして安重根として‘書’という表現を使ったものと、‘謹拝(謹拝, 慎んで差し上げる)’と書いたものがあるが、謹拝は指揮官級の将校または検事長など高い地位にある人に与える時に書いたと指摘した。為国献身遺墨には明確に謹拝と書いてあり、憲兵上等兵にあげた遺墨ではありえないということだ。しかし、大部分の安重根関連文や論文は、これをそのまま受け入れているとシン博士は指摘する。‘為国献身軍人本分’は現在、大韓民国国軍の標語の一つでもある。
チョン・ユギョン記者
原文: 訳J.S