原文入力:2010-03-26午前09:27:10(1537字)
[安義士 殉国100年] 家門の‘光と闇’
チョングン・コングンなど 独立有功人物録に11人搭載
ジュンセン "死んだ父の罪 私が贖罪" 伊藤 追慕
クォン・ヒョクチョル記者
国家報勲処の‘大韓民国独立有功人物録’を見れば‘建国勲章大韓民国章’という最高勲章を受けた安重根をはじめ、弟のジョングン・コングンなど安義士一族の人々 11人が名簿に上がっている。特定一族の人々が独立運動に飛び込んだ事例はなくはないが、10人を越える有功者を輩出したのは安義士一族のみだ。安義士一族は全て合わせれば40人余りが独立運動に献身した。しかし安重根義士殉国後に離散と流浪を繰り返した家族の行跡を見れば、光と闇が克明に交錯する。安義士の子息ジュンセンのように民族反逆者として非難の対象になったケースもあるためだ。
安義士の弟であるジョングン(1885~1949)とコングン(1889~1940?)は独立運動の先頭に立った。ジョングンは1920年青山里戦闘に参加し、上海臨時政府で内務次長と大韓赤十字会会長職務代理を引き受けた。ジョングンの次女 ミセンは臨時政府主席 白凡 金九の秘書として仕事をし、白凡の子息(キム・イン)と結婚した。安義士より十才下のコングンは尹奉吉義士などの義挙を計画した韓国人愛国団が白凡の主導で結成されるや団長を引き受けるなど1930年代白凡の最側近として活動した。だが彼は白凡と不和を起こし、1940年に行方不明となり墓を探すことはできない。ジョングンは49年に上海万国墓地に埋葬されたと言われるが中国革命の渦中で墓の行方は見つからなくなった。安義士の遺骸だけでなく弟2人の遺骸もどこにあるか分からない状況だ。
安義士の直系の息子(ジュンセン)と娘(ヒョンセン)は伊藤博文を追慕する親日行為により民族反逆者という後ろ指を指された。上海で成長したジュンセンは朝鮮総督府の招請を受け1939年10月に朝鮮を訪問した。彼は強圧によったものではあったが、伊藤博文を追慕する寺刹である博文寺(現在のソウル,新羅ホテル付近)を訪ね伊藤の霊前に香を焚き 「死んだ父の罪を私が代わりに贖罪する」という談話を発表した。ジュンセンは伊藤博文の子息に会い「父の代わって深く謝罪申し上げる」とも話した。怒った白凡が光復の後に帰国を待ちながら「民族反逆者に変節したアン・ジュンセンを絞首刑に処しなさい」と中国官憲に頼むほどだった。しかし安重根研究の権威者であるチェ・ソミョン国際韓国研究院長は「安義士一族が独立運動最高の名家になったことは、逆説的に日本が‘寄与’したことが少なくない」とし「安義士一族の人々には独立運動をしなければ親日派になるほかはない極端な状況だったし、ジュンセンの場合、一身の栄達のために親日派になったケースとは区別して見なければならない」 と話した。
ト・ジンスン昌原大教授(史学)は2009年の安義士義挙100周年を記念し発表した‘安重根一族の百世流芳(名声・功績が後世に長く伝わること)と忘却地帯'という論文で「現在、安重根の直系子孫は米国に、弟ジョングンの直系は韓国と米国に、コングンの直系は北韓とパナマに散らばっている」として、南と北,海外に散った彼の子孫たちが会えるようにすることは、安義士の遺骸発掘に劣らず重要なことだと強調した。
クォン・ヒョクチョル記者 nura@hani.co.kr
原文: 訳J.S