原文入力:2010-03-04午後07:33:55(2041字)
キム・ジャドン-臨時政府の懐の中で43
←1941年1月1日、西安に派遣された韓国青年戦地工作隊を光復軍第5支隊として編入することにより、大韓民国臨時政府は直轄軍隊として光復軍の統帥体制を確立した。
1940年光復軍を創設当時、臨時政府では短期間に師団級の兵力を召募できるものと期待した。満州で活動していた抗日指導者たちは大部分が33年を前後して関内(万里長城の南側)に撤収したが、残っていた組織にある程度の期待をかけたためだ。40年末になると日本は中国沿海各省の主要都市を全て掌握した。多くの韓国人が日本軍について日本占領下の各都市で暮らすことになった。臨時政府ではこれらも召募の対象になりうると信じたのだ。
しかし現実的にはそのような期待は大部分はずれた。最初に満州地域では30年代中盤以後、独立軍の残余勢力は中国共産党と連帯し組織された‘東北抗日連軍’に参加した一部を除いては日本の徹底した弾圧で完全に壊滅した状態であった。40年代に入ると日帝の持続的な討伐作戦で‘抗日連軍’の活動も長白山地域に狭まっていた。そして日本占領以後、中国の都市に新たに移住した韓国人の大部分は民族意識が不足した人々だった。
白凡の‘光復軍編練計画大綱’に対し蒋介石軍事委員長は非常に好意的な反応を示し迅速に批准した。しかし実務を引き受けた軍事委員会軍政府では隷属問題に関し韓国側の意図とは異なる解釈をしたために光復軍の編成は遅れた。軍政府側では、光復軍が 「当然に軍事委員会に隷属しなければならない」とし「各地に派遣される韓国光復軍もやはり、その地域の軍事長官の統制を受けなければならない」と主張した。結局、光復軍を中国軍事委員会に隷属させなければならないということだった。これが後日、中国軍事委員会が光復軍の活動を制約できる根拠となったことであり、光復軍の地位と進路に決定的影響を及ぼすことになる‘韓国光復軍9ヶ行動準縄(規則)’という行動規綱を提示することが明らかになった。光復軍創設に前後し、光復軍問題を主管する部署が軍事委員会軍政府から公務処理庁に変わった。しかし光復軍を中国軍に隷属させなければならないという方針には変わるところがなかった。こういう基本的な問題はそのままにして総司令部が中国軍事委員会の承認なしで活動を展開したわけだ。
臨時政府は当初、運営費の大部分を中国側の支援を受けられると期待したが、総司令部成立までは自ら解決することにした。これは在米同胞たちの献金に対する期待があったためであり、事実 総司令部創立は中国側の後援なしに進行した。中国当局ではわが方に総司令部構成などに対し何の相談もなく内心不快だったかも知れない。中国政府は総司令部に中国軍官相当数が参加することを望んでいるのが明らかだった。その一方で体面上‘総司令部成立典礼’に礼を尽くし祝ってくれたのだった。
←キム・ジャドン大韓民国臨時政府記念事業会長一方、臨時政府は40年11月1日から施行する‘大韓民国臨時統帥副官制’を制定すると同時に、主席に金九(臨時政府主席),幕僚にリュ・ドンヨル(参謀総長),チョ・ソンファン(軍務部長),チョ・ワング(内務部長)を選任した。このように統帥体制を確立することにより、光復軍は編成上 臨時政府の直轄軍隊になったわけだ。光復軍総司令部は創立約2ヶ月後、西安へ移転し軍事特派団と統合し総司令部を再組織した。晴サ 曺成煥先生は国務委員(軍務部長)に復帰し、総司令代理にファン・ハクス,参謀長代理にキム・ ハクギュ,参謀組々長にイ・ボクウォン,参謀にイ・ジュンシク,コ・ウンギ,副官組々長にファン・ハクス,副官にキム・ヨンウィ,チョ。シウォン,ワン・ジュンリャン(ナ・デソプ),経済組々長にチョ・ギョンハン(アン・フン),組員にチ・ポギョン,チョ・スンオク,オ・グァンシム,編集組々長にソン・ドンサン,組員にチオ・シジェが任命された。
総司令 イ(ジ)・チョンチョンと参謀長イ・ポムソクらは中国政府との交渉のために重慶に残らなければならなかったので、ファン・ハクスとキム・ ハクギュの二人が各々総司令と参謀長代理を引き受けた。アボジ(キム・ウィハン)もやはり重慶での事務のために西安の組織からは外れた。引き続き光復軍の3ヶ支隊が西安で創設された。この3ヶ支隊は各々敵後活動を通じた人員召募に目的を置き、各々その翌年の41年2月から戦線地域に進出した。そして41年1月1日を期し西安に行っていた韓国青年戦地工作隊も光復軍第5支隊として編入された。
キム・ジャドン大韓民国臨時政府記念事業会長
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/408154.html 訳J.S