原文入力:2009-12-16午後09:01:44
escウォーキングマップ16. 済州邑城跡 路地裏と山地川
済州牧官衙から済州城跡・山地川をすぎて福神弥勒像まで3.5km
イ・ビョンハク記者
有名観光地中心の済州道旅行では見逃すことが多い。済州道文化遺跡がそれらだ。済州市の旧都心の路地にも観光開発の渦中に生き残った済州特有の見どころが隠れている。市内オルレ(家から道路に出るまでの路地,済州島方言)探訪だ。済州牧官衙から出発し済州城跡と山地川に沿い、温和な笑いで迎えてくれる福神弥勒像まで歩く。
←済州牧官衙前の観徳亭(宝物322号)の中には‘湖南第一亭’等の扁額と壁画などを見ることができる。
済州官衙前広場を見下ろすように立つ大きな楼閣が宝物322号観徳亭①だ。済州道の代表的な亭子であり、道内で最も古く規模の大きい朝鮮時代(世宗)の建築物だ。目を開けた石のお爺さんが2人、亭子の両側に立ち旅人をむかえる。観徳亭前庭は科挙試験場,朝廷に捧げる馬とミカンを点検する場所としても利用された。毎年、立春のクッノリ(巫祭)が繰り広げられ、60年代以後には各種集会や選挙遊説が行われる所だ。
歳月は水の如く,老いは風の如し~
済州牧防御使の旗を掲げた旗竿支柱と下馬碑を見て、済州牧官衙の中に入る(入場料1500ウォン)。官衙の建物は発掘調査を経て最近復元したものだ。官衙回廊の片側に用意された<耽羅巡歴図>(宝物652-6号・1702年済州牧使として赴任した李衡祥の管内巡視の様子を描いた41幅彩色画帳)複写本を通じて当時の官衙の姿と各地域の風景を知ることができる。
官衙の中の善政碑・不忘碑②は主に朝鮮末期に在任した済州牧使らを賛えたものだ。キム・イクス(72)済州道文化財委員は「済州道の碑石らは簡単にすりへる玄武岩で作られており、朝鮮中期以前の碑石は見つけるのが難しい」と話した。興宣大院君の兄の李最應を賛えて建てた永世不忘碑もある。高宗の時、済州牧使,白樂淵が当時、領議政に上がった閔妃派実権者 李最應の歓心を買おうとして建てた。復権した大院君により李最應が殺害され、白樂淵は他の位を得られなかったという。
官衙を出て郵便局横に樹齢270年になる楠と星州庁(統一新羅~高麗の時、耽羅国の官庁)跡の標石を見て地下道を渡り路地に入る。南門から官衙につながる昔の大通りであるハンジッコル(南門路)だ。80年代まで文化芸術家たちが好んだ路地だ。済州文化芸術財団キム・オスン(43)研究士がイサンチョサン食堂の2階を指さした。「元はソラタバン(さざえ喫茶店)・社会科学専門書店だったところで、展示会や公演がしょっちゅう開かれた所です。」
←済州南門交差点角のタイル塀。二徒1洞住民1300人余りが各自の夢と希望を絵に描き文を書いたタイルを集め壁画に飾った。済州最初の天主教会の跡をすぎ、朝鮮時代の判官の執務室,貳衙(イア)があったイアゴルに入る。旧済州大病院そばの狭い路地に入ると、石垣の内側にわらぶきの家③一戸が見える。都心の真中にあるわらぶきの家だ。キム・オスン氏がすりへるだけすりへった門をたたき主人を呼んだ。「ここ、ちょっと見せてくれんね、サムチュン(隣人や知り合い,年配の方を呼ぶ呼称),ちょっと入れてくれんね」アン・スンセン(87)おばあさんと実家に来ていた娘のパク・スン(54)さんが門を開けてくれる。この家に暮らしはじめて6代目になるというわらぶきの家だ。わらではなくセ(イネ科に属するすすきの一種)を編んで屋根を葺いた。「わら(セ)が高くて昨年は葺けなかった」2年に一度、わらを代えるのに昨年はセがなくてできず、今月20~25日に葺き替える予定だという。
済州城南門跡の標石を見て南門交差点へ行く。交差点角の駐車場塀④が目を惹きつける。2008年夏、二徒(イド)1洞の住民1300人余りが文と絵で各自の夢・希望を描いた小さなタイルを集め壁に付けて‘美しい南門路の話’というタイトルをつけた。パパの禁煙の誓から20代の愛の告白,医者になりたいという小学生の希望まで、一つ一つに口元がゆるむ。
済州城跡に向かって歩く。済州邑城は高麗末・朝鮮初期の間に倭寇の略奪を防ぐために建てた城郭だ。明宗の時(1565年)城を拡げて周囲約3kmに達する城郭を完成した。日帝強制占領期間を経て城郭の大部分と東・西・南門,山地川上のアーチ門2つが撤去され、今は山地川そばに峙城⑤など一部だけが残っている。壊された城石は山地川下流の入り江埋立工事に使ったという。城跡として道の脇に長さ170mの城郭と峙城が復元されている。
←済州城跡の下の五賢壇俎豆石。宋時烈など済州に遠島されたり赴任するなどして地域発展に貢献した五人を迎え祭事をあげる。五賢壇⑥に入る。城壁の下のうっそうとした林の中にある五賢壇は朝鮮中期に済州に遠島されたり官吏として赴任し地域発展に貢献した金淨・宋麟壽・金尙憲・鄭蘊・宋時烈など5人を迎えたところだ。金淨と宋時烈の謫盧遺墟碑があり崩れいく岩壁には尤菴 宋時烈の座右銘だった‘曽朱壁立’(曾子・朱子のように所信をもって生きるという意)の刻字が残っている。
“歳月は水の如く,老いは風の如しだな…”城壁下の香爐堂(敬老堂)前に座っていたお年寄りのやや低めな‘青春歌’の一節を聞き五賢壇を出て道を渡る。東門市場側につながる道塀に展示されていた済州市内の昔の様子の写真が見る価値がある。塀の向こう側の石垣下には‘嘉楽泉(カラクンムル)’標石がある。水がおいしく市内全域から水を汲みに来る人波で混みあったという。民家が建って泉は埋められ標石だけが残った。
←ポリパン三兄弟屋のスックパン(よもぎパン)・チンパン(あんまん)・ポリパン(麦パン)。東門市場一帯は朝鮮時代以来の種々の教育機関が明滅して行ったところだ。済州最初の中等教育機関である義信學校(1907年)跡。生員・進士などが集まり勉強した司馬齋(1879年)跡,郷校創建の場所などを知らせる標石らが角ごとに隠れている。15年にわたり三兄弟が麦パン・よもぎパン・あんまんをふかしてきたポリ(麦)パン三兄弟屋に立ち寄り、ポリパン(4ヶ1000ウォン)を買い、12年たつというクォンゴギメミルグクス(雉肉そば)専門路地食堂を経てウッセンジゴル(上郷校路地)を巡り東門路大通りに出る。
東門ロータリーに着けば山地川があり東門市場の一部が覆蓋川のに位置していることを知ることになる。山地川水路は60年代に全て覆蓋されたが、2002年に再び取り壊し古の姿を取り戻した。魚たちが遊ぶ姿が垣間見られる山地川水路に沿って歩いてまた歩く。光霽橋そばの水辺の岩(敬天岩)の上に朝天石⑦と呼ばれる信仰石が立っている。洪水被害がないよう空に祭事を行った所だ。北城橋下と山地橋下にはサンジッムル,ノリムル(ナリンムル)等、かつての洗濯場の跡も見られる。
飛行機の離陸を見て微笑を浮かべる弥勒像
←福神弥勒(済州民俗資料1号)龍津橋の向い側には中国避難船⑧模型がある。中国,遼寧省を発ち漂流し1950年8月に山地入り江に漂着し何年間も停泊していた難民船海祥號をまねて作った船だ。済州道の伝統船のテウ,漕運船なども展示してある。龍津橋の周辺には港湾工事用石材を運んだ軌道車跡の標石,耽羅国開国説話と関連した健入浦(別名 コンドゥルケ)跡の標石がある。キリンモーテル路地に入り、金萬德客主跡の標石に出会う。ずば抜けた美貌の官妓であった金萬德(1739~1812)はこちらに客主家を建て財産を集めた後に、凶年になり島民が飢えるや全財産をはたき陸地から穀物を買って分けてくれた。
九徳を編んだ家跡の標石を見て坂道を上がれば、福神弥勒(済州民俗資料1号・写真)⑨の温和な微笑が待つ。高さ3mを越える大きな高麗時代(推定)の弥勒だ。住民たちが東資福・資福神・大きいおとな、などと呼んで豊漁と安全,福を祈ってきた信仰石だ(邑城西門の外には西資福がある)。
弥勒が微笑み眺める所を見渡すと済州港海上に空港を今しがた離陸した飛行機が加速している。沙羅峰(サラボン)まで歩こうとしていた計画を雨のためにたたんだ。官衙から福神弥勒まで3.5km。
←escウォーキングマップ16.済州邑城跡路地と山地川。(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)ウォーキング メッセージ
◎済州空港から済州牧官衙まで車で10分以内の距離。済州牧官衙の後方にある北小学校そばに無料駐車場がある。官衙には無料文化遺産解説者が常駐している。申請すれば詳細な説明を聞くことができる。済州旧都心探訪のまた別の方法として、旧済州邑城の場所に沿ってひとまわりしたり、済州牧官衙に入った旧入り江の禾北(ファブク)一帯を見て回っても良い。探訪前に沙羅峰下の国立済州博物館を訪ねれば探訪の道が一層豊かになる。済州の歴史と文化遺産を一気に見渡すことができる。
◎探訪の途中で周辺の食べてみたいところとして、東門市場路地内のソバを厚くこね大型のうどんを切って出す済州式雉肉そば専門路地食堂(064-757-4890),50年伝統のもち米スンデを出す光明食堂(064-757-1872),旧済州大病院入口の35年伝統の酔い醒ましスープ専門店ミプンヘジャンクク(064-758-7522),一徒1洞の光陽ロータリー興国生命裏道の漢方ウェルビーイング飲食店チャムサリチェマネ(064-721-0880)等がある。
◎済州文化芸術財団(064)748-9817,済州文化院(064)722-0203,済州空港済州総合観光案内所(064)742-6051
済州=文・写真 イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/393864.html 訳J.S