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[マガジンesc]伝統ある家 酒の味まで奥ゆかしい

登録:2009-10-15 17:11

原文入力:2009-10-14午後08:34:56
escウォーキングマップ12.大田(テジョン),懐徳(フェドク)の石像と別堂
大田,大徳(テドク)文化院からティッコル(路地裏),双清堂・同春堂を経て比來コル(谷) 玉溜閣まで7km

イ・ビョンハク記者

←大田,大徳区,邑内洞ティッコル入り口に立っている一組の石像。目と鼻は浮き彫りで口は彫って作った。

大田と言えば先ず新興アパート都市が思い浮かべる人が多い。しかし大田は1000年の昔からソンビ(高尚な人)文化が綿々と伝えられた歴史と文化の故郷だ。‘懐徳分岐点’で有名な懐徳に答がある。懐徳は‘徳を抱いた’という意味だ。高麗太祖の時から使われた村名で、今は大田広域市,大徳区に属する。‘大徳’という地名は日帝強制占領期に大田と懐徳から1字ずつを取ってきて作ったものだ。こちらのアパートの森の合間合間に‘徳を抱いた’昔の村の痕跡が明確だ。大徳文化院を出発し同春堂を経て比來コル 玉溜閣まで歩く。

チャンスン(道しるべとして立てた男女一対の像)とガードが客人を迎える

邑内洞,大徳文化院(兼 大徳文芸会館)で旅行地図と資料を入手した後に歩き始める。邑内洞は旧懐徳県官衙があった所をはじめとする地名だ。道を渡って邑内四つ角を右折し3分の距離に‘堂の下石チャンスン’がある。チャンスンというよりは男性性器に似た石(高さ76㎝)だ。チャンスンのそばで新聞・箱などを集めて縛っていたチャン・スンエ(86)おばあさんは「あの堂山の下のペベマウル(甲川の舟を泊めたところ)にあったものをここに持って来たんだ」と言った。

‘御史ホン・ウォンモ永世不忘碑’(1831年)と懐徳洞住民センター広場に立ち並ぶ観察使・県監などを賛える善政碑・不忘碑16ヶを見てティッコル側に行く。一組の石チャンスンが待っている。‘ティッコル チャンスン’だ。背が高い男チャンスン,背が低い女チャンスンがほほえましい表情で笑い古く奥深いティッコル風景が懐かしくなる。

←懐徳同春堂(宝物209号)は同春 宋浚吉の別堂だ。左側一間がオンドル部屋だが煙突をたてずに壁の下に穴だけが突き抜けていた。

チャンスンそばの路地に入れば線路の下にガードの行列が続く。100m余りを歩く間に何と8ヶの高かったり低かったり、長かったり短かかったりするガードをくぐらなければならない。京釜線鉄道大田操車場の周辺だ。最後の陸橋はアーチ型トンネルで、日帝強制占領期に作られたものだ。住民たちは‘クチョルトク’と呼ぶ。ガードの合間合間には昔の路地裏風景が残っている。30年間にわたって臼だけを搗いてきたと言う‘ティッコル精米所’を過ぎて大通りに上がる。道の向かい側の小公園のそばに霽月堂がある。霽月堂は朝鮮粛宗の時に礼曹判書を務めた‘霽月堂 宋奎濂’が住んでいた家の別堂だ。門が閉まっていて物足りなさが残る。

大通り(鷄足路)を離れ京釜高速道路と並んでいる裏道に沿って歩く。鷹峰近隣公園に昔の韓国式家屋の塀の跡が残っている。ここには朝鮮末期の儒学者,遜遇堂 洪錫の九十九間屋敷があったという。法洞小学校側に出てきてポラムアパートに沿って鷄足路四つ角へ行けば、道の両側に法川水路にあった‘法洞石チャンスン’一対がある。男女のチャンスンを各々小さな黒い先石と共にたてた点が特異だ。法洞2棟住民センターの裏に入り、法洞市場をすぎる。10余年前に自然に生まれた在来市場だ。市場道の終端左側に旌閭閣が一つある。孝誠が限りなかった恩津宋氏夫人を賛えて英祖の時に下賜された旌閭だ。朝鮮時代、懐徳と言えば恩津宋氏を除いては語れない。朝鮮前期の学者,双淸 宋愉が居を構えて以来、代々にわたり尤菴 宋時烈,同春 宋浚吉などの儒学者を輩出した。

←松崖堂の前には法川水路にあった‘法川石塚’石刻岩を移されていた。同春 宋浚吉の筆だ。

道の向かい側には中里洞。左側には木に生い茂った公園が見えて来る。松崖堂だ。孝宗の時、忠清観察使を務めた松崖 金慶餘が作った別堂で、今見てきた旌閭閣の主人‘恩津宋氏夫人’がまさに金慶餘の母君だ。別堂とは板の間とオンドル部屋を備えた主人の生活空間であり、客人の応対場所として使われた離れ座敷をいう。松崖堂入り口には法川水路から移されてきた‘法川石塚’(同春 宋浚吉の文字)が彫られた岩が置かれている。道は双淸堂につながる。双淸堂は高麗末~朝鮮初期の学者であり恩津宋氏の入鄕祖である宋愉の号だ。世宗の時に初めて建てられた故宅の別堂建物だが丹靑を塗った点が特異だ(世宗の時から民家には丹靑が禁止された)。老いた百日紅が茂り、垂れこめた陰が奥ゆかしい。宋愉故宅は門が閉まっていてもベルを押せば開けてくれる。

宋愉の母堂,高興柳氏夫人の旌閭閣と旌閭碑(宋時烈 筆)を見て、飲食店が立ち並ぶ宋村洞路地を歩く。手づくり豆腐屋の後の大通りのそばに‘上下宋村里三綱閭’と書かれた大きな岩がある。忠臣・孝子・烈女をすべて輩出した村という意味だ。丙子胡乱の時、江華が陥落するや自決した李時稷公旌閭閣を経て消防署四つ角に出る。道の向かい対角線側に同春堂公園がある。

←同春堂の庭には碧梧桐(アオギリ)の一株が立っている。庭で拾った碧梧桐の実.

懐徳別堂建築物探訪のハイライトが同春堂だ。大田が誇る宝物(209号)であり、地域歴史文化教育の基本となる遺跡だ。「大田市民が小・中・高生の時に必ず一回ずつは通り過ぎる所」だ。アパート団地に囲まれた同春堂公園では‘同春堂の古の様子探し造形工事’が真っ最中だ。

同春堂公園には孝宗の時に吏曹・兵曹判書を務めた宋浚吉(1606~1672)の別堂同椿堂と故宅,霊廟,そして宋浚吉の孫の宋炳夏が暮らした‘宋容億家屋’がある。同春堂はオンドル部屋と大庁からなる正面3間,横面2間のこぢんまりした建物だ。煙突を立てず壁の下に四角形の穴だけが突き抜けているのが特異だ。表札板は宋浚吉と叔父,姪関係の尤菴 宋時烈(1607~1689)が書いたもので原本は宗中事務室にある。のっぽ松と桐・柿,巨大な榎などが塀の内外に陰を垂らしている。枯れ落ちた碧梧桐の葉についていた実をむいて味わった。香ばしくほのかな味だ。

宋浚吉故宅には14代宗家の子孫が暮らしている。塀のそばの煙突の太極紋と八卦装飾が異彩を放ち注視に値する。‘浩然齋金氏夫人詩碑’,4月には“齢300年になる皐月つつじが燃え上がるように花を咲かせる”という宋容億家屋,‘宗氏3世孝子旌閭旧拠碑’等に順に出会う。恩津宗氏家の家醸酒として有名な伝統酒松筍酒が伝わっている。

←高興柳氏夫人旌閭閣と旌閭碑. 碑文は同春が作り尤菴が書いた。

同春堂公園を出て塀に沿って回り、京釜高速道路下ガードを通れば鷄足山裾の比来コルだ。固城李氏集姓村だ。まず歓迎してくれるのは樹齢570年になるという巨大なケヤキ二株と非波形銅剣が出土した覆い式支石墓(コインドル)の二つだ。梅峰(鷹峰)を眺めて比来岩に上がる。道は舗装工事中だ。しばらく上がれば路傍の岩に宋浚吉が書いたという‘超然物外’の文字が見え、渓谷水路に上がった玉溜閣がその姿を現す。水量が増えれば玉溜閣の下を流れ岩に落ちる水の流れが壮観だと言う。

当時も今も学生は落書き禁止

玉溜閣は霽月堂 宋奎濂などが1693年に、同春が講学した所を記念して建てた楼閣だ。中にかかった種々の板刻文中には‘勉強しに来た学生たちは壁に落書きするな’と注文をつける内容もある。同春 宋浚吉が紙に書いて比来岩壁に書いたことを後輩の学者たちが板刻したのだ。比来岩懸板の下に懸かっている尤菴 宋時烈が書いた‘比来岩古事記’にこういう内容と共に同春と交流した集いを追憶する内容が記されている。

下ってきて比来コル ケヤキ周辺の手づくり豆腐屋で空腹を癒した。大徳文化院から比来岩まで7kmを歩いた。4時間半。多少遠い距離なので懐徳洞一帯と宋村洞一帯を分けて歩くのも良いだろう。

大田=文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr

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ウォーキング メッセージ

◎京釜高速道で大田出入り口を出て直進、高速バスターミナル前を過ぎ17号国道を右折する。大徳区庁前の五叉路を過ぎ17号国道に沿って行けば邑内四つ角を過ぎるとすぐ右側に大徳文化院(文芸会館)がある。路地内に駐車場がある。文化院には周辺文化遺跡資料が豊富だ。大徳文化院(042)627-7517.大田文化館観光解説士協会(042)226-8413。鶏の水炊き・清麹醤・手づくり豆腐を出す比来コル手づくり豆腐(042)622-6595,泥鰌鍋と泥鰌カルグクスが美味な宋村洞のテチョンマルチュオカルグクス(042)632-7640.鷄足山登山,貨幣博物館・地質博物館など博物館ツアーもしてみるに値する。10月20~26日大田では第90回全国体育大会が開かれる。

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/212/381958.html 訳J.S