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任在慶(イム・ジェギョン)コラム[道を探して]世の中を変えた人たち(5)記者として‘三十而立’は交友らのおかげ

登録:2009-10-14 10:30

孔子の言葉中で最も広く膾炙する警句を探そうとするなら言うまでもなく‘三十而立’だ。年齢三十に達して、はじめてどのようなことにも揺れない信念が立つことになるという意だ。新聞記者の三十而立はどんなものであるか。名前がさっと世の中に知らされたおかげで、近い人々の就職要請を解決してあげ、ただ酒をおごられ飲むことといえばあまりにも自虐的な話というだろうが、概して1960年代の三十才記者は、それに似た面白味を取り除いては大きく出すものはなかった 一方、記者職を経て、立身出世した人々の三十才はそのような面白さはそれなりに楽しんで、有力層にコネを作る大胆性・猪突性を発揮した。遠いが図々しさといってこそふさわしい。

しかし二十八や二十九に達して、突然「三十而立」に向かって、つぼみを作るといえば滑稽な話だ。生まれた条件、幼年期の家庭環境、クラスや学校の教育、社会に出てきて苦しめられる中で身についた世界観と人生観があまねく寄与すると見れば、大きく間違ってはいないと思う。 人間の生理構造や寿命を考慮する時、三十而立ならば、早くも遅くもないつりあった時期だ。だが人よって二十歳、あるいは四十歳に信念をたてることもできて、六十而立といって、悪く話したりあざ笑うのは誤りだ。例えば用心して教鞭生活をし、65歳で定年退職をしてから社会運動に情熱を傾けた方々が今どれくらい貴重な役割をしているのか。

十年くらい前に、オ・ヨンホ(『オーマイニュース』代表)が『月刊マル』の取材部長をしている時、記者多数と共に良い話を聞こうとしながら、席を用意した。集いが終わる直前オ・ヨンホが私に投げかけた質問は、「自由言論と民主化運動をすることになった動機は何か」ということであった。動機を一つだけ選んで言うことも大変だったが、冗長な返事をならべる段階ではないことはもちろんだ。先輩記者の瞬発力を一度試験してみようと思う目つきが歴然だった。「そうだな、何というだろうか。 私には交友関係が一番大きい影響を与えたようだが」といいながら、そこに集まった記者らが皆分かるほどの名前を二三言ったところ、彼らは満足そううに首を縦に振った。

交友関係ならば、いつ、誰から始めるだろうか? 幼友達、小学校、中・高校、大学、文学青年時代さ迷い歩いた明洞(ミョンドン)、新聞記者初年…? 70にさしかかっては愛憎と恩怨感情が交差するけれど、戻ることはできない過ぎた日につきあいのあった友人らは、皆大切だ。オ・ヨンホ一党に言った名前は、李泳禧(リ・ヨンヒ)、南載熙(ナム・ジェヒ)、白樂晴(ペク・ナクチョン)の三人だった。 三人の中で最も早くつきあいのあった人が白樂晴で、彼より少し後で二人と60年代初め、『朝鮮日報』で会った。
白樂晴を私に紹介した人は、白樂晴とソウル斎洞(チェドン)小学校敵の友達だったキム・サンギだ。 50年前の哲学もキム・サンギは私たちの同い年頃、日本語の本をさらさら読むことができるすごい読書家であった。優れた親和力と話術に勤勉・誠実・清潔な身の振り方で定評になっていたし、博士・修士論文は、ドイツのハイデッガーについて書いた。 今ここで彼の思想を一言で整理することは難しいが、政治と社会を見る視角は非常に進歩的であったし、私は彼のそのような面に引かれた。

私は大学で英文科に籍を置いたが、学業を怠ったうえにフランス文学に心酔した‘デカダン文学青年’だったらあらましの絵が描かれるだろう。本を読むよりは、西洋古典音楽、そしてフランス映画とシャンソンが一番で良かった。この前に読んだラテンアメリカの作家ガルシア・マルケスの自叙伝「話すために生きる」(Vivir para contarla)を読んで、学業をけり飛ばした後、新聞に雑文を書くとしながらカフェを転々とする息子(マルケス)の気を引き締めようとお母さんが切なく訴える場面で、とても苦々しい気がした。20代初めにデカダン文学青年という行為は似ていたのか分からないが、彼は不滅の作品を残したので私とは余りにも違う。

記事原文:https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/289051.html
翻訳:T.M
記事掲載日時:2008年5月22日