原文入力:2009-09-09午後09:18:32
escワーキングマップ10.公州 公山城と済民川
錦江の流れを見下ろす忠南,公州,公山城から済民川を通り長者 金甲淳邸跡まで4.5km
イ・ビョンハク記者
←公州,公山城(熊津城)東北端から眺めた錦江上流側。公山城は森の道も良く展望も良い公州市民の休息所だ。
忠南,公州 錦江にコマ船着場(コムナル)がある。漢字語で熊津だ。錦江(熊壽)の‘錦’,公州の‘公’も‘熊’から変わった字と見なされる。錦江辺の公山城もそうだ。公山城が百済の古都(475~538年)熊津城だ。コムナルは‘錦江辺の燕尾山に棲んでいた雌熊が未婚の男を捕まえて子供を産んで暮らしていたが、ある日男が川を渡って逃げると雌熊が子供を抱いて水に飛び込んで死んだという伝説’に由来する名前だ。
←公州山城市場入り口の市内バスターミナル横の店。年配の客たちが車を待ちながらマッコリ杯を傾けている。きなこ餅 発祥の地 公山城
公山城①は公州市民が好んで訪ねる休息所であり散歩空間だ。入場料1200ウォン。うっそうとした森の間に先史時代から朝鮮時代に至る遺跡が並んでいる。公山城の西門 クムソル(錦西楼)②前から出発し山城を見物した後、済民川周辺の公州旧都心に向かう。
クムソル前から武寧王陵へ向かう車道側を見ると巨大な四角形の門が立っている。武寧王陵から出土した王の足置き台をまねて作った‘武寧王陵門’③だ。ここから1.5kmの距離に武寧王陵と松山里古墳群がある。
クムソルに上がる道の傍らには碑石が並んでいる。市内随所に立てられていた観察使(朝鮮時代に各地方に派遣された地方長官)・暗行御史(アメンオサ,朝鮮時代、各地方に放たれた王直属の情報部員)・牧使・郡守らの行績を賛える善政碑・不忘碑・永世碑など43ヶの碑石④が一ヶ所に集めてある。一目瞭然で秩序整然と見えるものの、やはりどこかぎこちない。やはり初めて立った所が本来の席ということを悟らせる。
クムソル内に入れば本格的な森の道が続く。クヌギや榛の木・アカシデ・ミツバ松らが陽光を遮り茂っている。森の中にレンガを敷いて散歩道を作ってある。
公山城は錦江辺南側の海抜110mの山に位置した周囲2.6kmの長方形の城郭だ。当初は土城だったが朝鮮宣祖・仁祖の時に石城に改築された。城内には熊津城当時の王宮跡と推定される場所と数多くの建物跡,壬辰倭乱前に僧兵が合宿し訓練した霊隠寺が残っている。復元された臨流閣⑤(百済東城王が宴会をした所)と朝鮮仁祖が李适の乱を避け留まった双樹亭遺跡地も見える。インジョルミ(韓国風きなこ餅)という餅の名前も仁祖が公山城に留まった時に始まったと知られる。イム氏が作ってきた餅に仁祖が喜び‘イム氏が作った絶味’という意味でイム絶味と呼んだが、これが訛ってインジョルミになったという話だ。
公山城は展望も抜群だ。あちこち曲がりくねる錦江の流れを見下ろすことができる。公州江北の新市街地がひと目で見渡せ、熊伝説が宿った燕尾山も見える。百済の滅亡後、唐の総帥 劉仁願主導の下、義慈王の子息,扶餘隆と新羅の文武王が同盟を誓約した就利山(就利山会盟址)も見える。
鎭南樓(南門)⑥を降りてきてチムジルバン(韓国式サウナ)を過ぎて旧都心の中心道路である熊津路に出る。右側に高速バス停留場(旧ターミナル)を過ぎると道の向かい側がいわゆるミナリ通りだ。1980年代初めまで済民川下流地域のこの一帯は全てせり畑だった。数十年前この近所の下宿屋のおかずは、せりの和えもの・せりキムチ・せり汁・せり揚げなど、せり一色だったという。
排水場そばのケヤキの木陰で電動車椅子に乗った2人の年配者に会った。「新官(洞)の土地一坪が米1升半の値段だったから畑一反買っておけばねー。でも買えなかったね。ところが、その畑が天井知らずに騰がったのさ」20余年前、公州の新市街地である江北,新官洞の地価の話だった。「なんてことだ。いくらも経たずに暴落したからね。ソウルの奴らがさんざん上げておいて逃げたって。自分たちで買ったり売ったりして最後に公州の人に売りつけて逃げ出したのさ。」
排水場横の土手道の屋台村には懐かしさがいっぱいだ。忘れれないで・懐かしさ・来る情行く情・約束のような浅く深い昔の名前の看板を掲げた幌張馬車が並んでいる。一部は店を閉めてしまった。7~8年前までは不夜城のように繁盛した所だったという。
栗の仕入れ作業で忙しい農協共販場と剥き栗商店を過ぎ山城市場の路地に入る。五日市(1・6日)と常設市場が混在した大型市場だ。市場内側に入ると広い市内バス ターミナルが目を惹く。ふろ敷包を頭に載せたり担いで運ぶ年配者と制服姿の学生たちが入り乱れて車を待っている。実はターミナルが市場に入ったのではなく、済民川上流側にあった在来市場が新しい商圏に押されターミナル側に降りてきたのだ。
山城市場と関連して親日派であり日帝時に全国最高の土地長者だった‘公州長者’金甲淳(1872~1960)の話を外すわけにはいくまい。旧韓末まで済民川辺の在来市場は現在の郵便局の上流側にあった。下流側はすべてセリ畑だった。1918年、市街地整備計画が実行されると金甲淳がセリ畑を埋めたて200余店舗を擁する私設市場を作ったという(<公州市誌>参照).
公州ではタダ酒一杯
山城市場2道を曲がれば角に餅屋⑦がある。きなこ餅(インジョルミ)・松餅(ソンピョン)・滋養餅(ヨンヤントク)など30種類余りのモチを作っているが、団体で申請すればインジョルミなど餅つくり体験(3千ウォン)が可能だ。市場内の路地には香ばしい臭いがいっぱいだ。ごま油を絞る店でなくとも、数十年間にわたって祝いのうどん・麦ご飯・解酲汁(ヘジャングク)(以上3千ウォン)を商ってきた店々,スンデ・モリッコギ店などが集まっている。⑧スンデ汁飯昼食を食べ文化観光解説士イム・ジェジュン(63)氏が酒一杯を薦めた。「この杯はひとまず受けなけりゃだめだよ。なぜならね。公州の人たちは酒飲む時は‘タダのコン’字に‘酒のジュ’の字を書くじゃないか。お客さんにひとまず無料酒を一杯差し上げないとって。」
市場を抜けて済民川の土手道に出る。セメント壁の間の済民川水路には水草あり石橋もある。水量は少ないが水はきれいだ。左右に散歩道兼の自転車道もある。公州旧都心を貫き錦江に流れ込む済民川は30年前には洗濯もしたし魚取りもした都心の母なる川だった。水が乾いて汚染が激しくなり、ドブになりそうになったが最近、錦江の水を引いてきて上流から流し入れて水質も回復し魚が泳ぐ河川に戻った。
斑竹橋を渡れば公州文化院と公州郵便局が左右にあり、その前の道の左側には洋式建物が立っている。1920年に建設され初期には金融組合会館として使われ、1989年までは公州邑事務所⑨と公州市庁舎として使われた建物だ。個人所有となった後、今は放置されている。
←公州班竹洞大通寺跡の幢竿支柱(左側写真)。公山城下の武寧王陵へ行く道の入り口に建てられた武寧王陵門。王陵から出た武寧王の足置き台をまねて作った(右側写真).監営道で右折して鳳凰山麓の公州師範大付属高校に行く。正門内左側の塀のそばに礎石などの石材を集めてあるところがある。朝鮮末期、忠清監営⑩があった跡だ。1932年まで忠南道庁として使われていた。道の観察使の執務室である宣化堂はコムナル観光地に移築された。公州師範大付属高校前で左側の最初の路地に沿って下って行けば、左側に公州郷校ユリム会館があり、対角線方向に草木が茂った小公園が現れる。公園の隅に幢竿支柱(寺の入り口に立てた旗竿支柱)がにょっきりと立っている。527年両国無災のために創建したという大通寺の幢竿支柱⑪だ。
幢竿支柱前の住宅は公州長者の金甲淳が住んでいた家だ。その莫大な財産と子孫も金甲淳の死後、足跡を探すのも難しいという。金甲淳邸跡地⑫であることを知らせる黒い標示石には歳月と物欲のはかなさがにじみ出る。公山城からここまで休んで食べて4時間,4.5kmを歩いた。
◎自分で運転|首都圏から京釜高速道で-天安~論山高速道路-公州分岐点-大田~唐津高速道路-儒城方面-公州出入り口-市庁方面-錦江橋や百済大橋-公山城. 大田~唐津高速道路に続き公州~舒川高速道路も開通した。
◎大衆交通|ソウル 江南および南部ターミナルから公州まで20~30分間隔で優等高速バスが運行。1時間30分所要。公州高速ターミナルに行く直前に公山城前の公州旧ターミナルにも寄る。
◎公山城錦西楼で土・日曜日(4~10月) 11~16時、毎時間水門兵交代式が開かれる。10月中旬まで公州栗農家で栗拾い体験ができる。3㎏ 1万ウォン。公州市庁山林緑地課(041)840-2818.牛城面韓川里 栗飲食農家(オ・フンチャン里長010-3845-6107)で栗ムック・栗ムック飯・栗味噌汁・栗ご飯・栗マッコリを楽しむことができる。
公州=文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr