原文入力:2009-07-22午後08:28:35
イ・ドギル氏‘老論史観批判’にオ・ハンニョン氏反論
←オハンニョン/歴史学者・朝鮮時代史
‘イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ’ 9回‘老論史観にゆがんだ朝鮮後期史’(7月8日付)に対して、忠北大学校尤庵(ウアム)研究所にいる歴史学者オ・ハンニョン氏が批評を送ってきました。
純祖の時‘李聞政→李文成’誤って校正
己丑獄事 ねつ造主張も年代錯覚のため
植民史観, 党派争いを批判していおり老論との結合困難
‘主流学界を撃つ’という題名で歴史学界に投じられたイ・ドギル所長の問題提起を見て、‘勇気’とか‘勇敢’という私たちがいつのまにか片隅に片づけてしまっていた価値や気概を思い出しました。
しかしイ・ドギル所長の大前提である‘植民史観と連結した老論史観が主流学界’という主張からして、学界の現実とは違うという点を確認しなければなりません。最初に、真意が曖昧ではあるが概して‘老論史観’と言えば、老論が主導的政治勢力だった朝鮮後期を良く評価するということで、それでは朝鮮後期を党派争いと空理空論に染まった停滞期と宣伝した‘植民史観’と背馳されるはずであり両者の結合は困難と言えます。第二に、80年代以後現在の学界は概して資本主義萌芽論-実学に代表される近代主義的解釈が主流です。
今は少なくなったものの、宋時烈のような西人-老論人物を研究すれば‘老論’と言ったり、性理学を研究しただけで‘守旧’の取り扱いを受けたこともありました。早い話が私も近代主義を抜け出し朝鮮後期を研究しようとしたとか、忠北大尤庵研究所専任研究員という‘罪’により西人-老論出身ではないかという質問を何度も受けました。それで柳成龍や許穆を研究すれば、南人出身じゃないのかと反問し虚しく笑ったりもするのです。
しかしいざ‘主流学界’の立場から見ればあきれるでしょうね?イ・ドギル所長の‘挑発’にもかかわらず静かなのは、歴史学者らの問題意識が不足していることにも理由があるでしょうが、当初イ所長が突飛ばところを撃ったためではないでしょうか? とにかくその省察に参加する気持ちでいくつかの見解を書いてみました。
‘李文成’と‘李聞政’
最初に十万養兵説が操作だという主張から見ます。
イ所長は十万養兵説の根拠は李珥の門人の金長生が編纂した‘栗谷行狀’だけであり、光海君の時に編纂された<宣祖実録>には出てきもしないと言いました。(この主題を扱い1948年に発刊したイ・ビョンドの<朝鮮史大観>を引用したように、‘イ・ビョンド博士’を媒介に老論史観と植民史観が連結しているというのがイ・ドギル所長の観察ですが、この問題は別に議論します。)そして十万養兵説を思い浮かべながら柳成龍が言ったという‘李文成は真に聖人だ。’という話を操作の証拠に挙げました。‘文成’は李珥の諡号で、柳成龍は李珥が諡号を受ける17年前に亡くなっているので行状は操作だというものですね。
ところで李恒福が書いた李珥の神道碑文を見ると‘李文成’でなく‘李聞政’となっています。李珥の諡号は‘文成’であるために李恒福が誤って書いたと考えることもできますが、李恒福もやはり李珥が諡号を受ける6年前の光海君10年(1618)に亡くなりました。それなら李恒福が書いたこの神道碑文まで後日に誰かが操作したか、あるいは何か理由があるということになります。また確認してみると、同じ金長生が書いた行状でも<栗谷全書>にのせられた行状には‘李文成’となっていますが、実際に金長生自身の文集である<沙渓集>には李恒福の神道碑文と同じように‘李聞政’となっています。どういうことでしょうか?
とんでもない人を撃ったオッチョコチョイ
ところで李珥の諡状を作った李廷亀も十万養兵説のエピソードを紹介して‘李聞政は真に成人だ’と言ったのです。諡状を作る人が本文で当事者の諡号を間違って記載するということはありえません。こうしてみると‘李聞政’は失敗でなく何か理由のある記録という話だと見る方がより常識的です。鍵は‘李聞政’が李珥ではないというところにありました。‘李聞政’はまさに李沆という人物でした。
李沆は中国宋の国の人で真宗の時の名臣です。宋の国が契丹と平和条約を締結し李沆は国がとても安らかになればむしろ禍根になると心配します。そして日照りや洪水になれば、必ず真宗に報告しわざと緊張させるようにしました。李沆が亡くなった後、真宗は国が太平だということを信じて宮廷を作り奸臣を登用するなど国政を惑わせました。すると李沆のかつての同僚であった王旦は後から李沆の先見の明を認め‘李聞政は真に聖人’と褒め称えます。以後、この話は口から口へ伝えられ常套句になります。従って柳成龍は‘李珥は真に李沆のような先見の明がある聖人だ’と話したのです。したがって李恒福の神道碑銘,李廷亀の諡状,<沙渓集>にのせられたこの方の行状は皆誤って書いたものではなく柳成龍の話に出てくる‘李文成’いや‘李聞政’が李珥の十万養兵説を操作するために金長生と宋時烈が記録をねつ造したという根拠にはなりえません。
それでは‘李文成’と記録されていてイ・ドギル所長が‘操作’の証拠として引用した<栗谷年譜>はどうなのでしょうか?純祖14年(1814)に刊行された<栗谷全書>には‘李聞政’ではなく‘李文成’と出ています。現在、韓国古典翻訳院のウェブサービスで提供している版本もこの版本なので、そこにも当然‘李文成’で出ています。私とイ・ドギル所長が当初根拠とした資料がまさにこの版本でした。しかし英祖25年(1749)に刊行された<栗谷全書>には‘李文靖’となっています。
簡単に言えば、純祖14年版<栗谷全書>の校正者が李珥の諡号が‘文成’であることは知っていて<栗谷年譜>で言った‘李聞政’に対する故事は知らなかったために‘聞政’が間違いだと思い‘文成’にさっと直したということです。
歴史学者のアポリア
宣祖7年(1574)、李珥は黄海監司として赴任し李元翼を軍官として随行し軍籍を整理するようにしましたが、以後に黄海道の軍籍が全国で最もよく整備されているという評を聞きます。そのような李珥が宣祖16年兵曹判書を務めながら‘十万養兵’を主張することが、果たしてそれほどぎこちないことでしょうか? 国防部長官が国軍精鋭化を主張することがぎこちないことでしょうか? 特に李珥は特産物を取り入れる貢案改正を主張し大同法の入り口を開きます。たとえ光海君と対北勢力によって挫折したとはいえ李元翼はこういう李珥との縁で後日、光海君の序盤に大同法議論を主導したのです。李珥の万言封事に見るように、民生と国防は皆彼の改革論から切って離すことのできない構成要素でした。
これらの資料が全て西人中心の記録であるから信じられないと言うかも知れません。どんな記録を信じることができるのかという質問に歴史学者はたびたび無力になるというのは事実です。従って‘テキスト’としての資料に対する問題は、歴史学の長い間のアポリア(難題)でもあります。それにもかかわらず、関連史料を構成し常識と合理的な判断を共有しながら真実に少しでも近付こうと歴史学者らは努力します。私の批評もそのような努力の一つとして受け入れられたらと思います。
反復される‘ねつ造’と‘操作’
朝鮮後期のわい曲の有力な証拠として、イ所長は金長生の‘松江行錄’を挙げました。これもまた時期を見間違ったことから来た誤りであり、金長生こそイ・ドギル所長に突然に非難されたケースです。
イ所長は金長生がねつ造したという根拠として柳成龍が委官(捜査責任者)を引き受け、李潑の老母と子供を殺した’という記録し‘鄭澈が柳成龍になぜ老母と子供まで殺したのかと問い詰めた’という記録を挙げました。それと同時にイ所長は李潑の老母と息子が刑罰を受けた日は宣祖23年(1590) 5月13日だが当時柳成龍は母親李氏の葬儀などの理由で朝廷にいなかったと言いました。だから、いもしなかった柳成龍が推官を引き受けて人を殺したと金長生がわい曲したのでありこれは柳成龍に過ちをかぶせようとする意図だったとイ・ドギル所長は主張したのです。
問題はここにあります。李潑の老母と息子たちが鞠問を受けて死んだ時期は、イ所長が言った宣祖23年ではなく一年後の宣祖24年5月のことでした。従って同じ5月頃だったためなのか、イ所長が年度を見間違ったのでしょう。金長生の記録のように宣祖24年(1591) 4~5月頃推鞫の委官は柳成龍であったし、5月のある時期に委官が再び李陽元に替わりました。この時、鄭澈はこの年の閏3月にすでに罷職された状態でした。罷職された鄭澈は5月に晉州に流配されようとしたが、宣祖がもっと辺境に移せと命令し、江界に流配されました。こういう状況で鄭澈が推官を引き受けるということは想像もできないことです。
また鄭澈と柳成龍が交わした対話の意味もイ所長の主張とはかなり異なります。金長生が書いた松江行錄を見ればイ所長の話のとおり‘柳成龍が李潑の老母と幼い子供まで殺した’と言うような記録があります。金長生は鄭澈が柳成龍に‘李潑の老母と幼い子供を公(あなた)はどうして殺したのですか?’と尋ねたという記録がそれです。ところが、まさに後の記録を読んでみれば違います。鄭澈がこのように尋ねると“柳政丞が言ったことを‘公だったら彼らの死を救うことができたでしょうか?’と尋ねた。公が‘私ならば救ったでしょう’と言うと、柳政丞が言ったことを‘そのようなことが出来たでしょうか?’と言った”と記録しました。結局、文脈はイ所長の断定とは異なり‘柳成龍が李潑の老母と幼い子供を殺した’と言ったのではなく‘柳成龍が李潑の老母と幼い子供を救うことができなかった’と言ったのです。
特に金長生が‘柳成龍と李陽元など、またその老婦人と幼い子息をどうして助けたいと思わなかったか。だが結局、助けることができなかったのは当時の状況がそうだったためだ’と話したのですが、達してみれば実際の行錄の論旨とイ・ドギル所長の解釈がどれほど違った感じと脈絡を見せるのかを知ることが出来ます。この言葉が柳成龍に過ちを上書きしようとする言葉なのか、柳成龍の立場も推し量らなければならないという話なのかは幼い子供でも分かるでしょう。
イ・ドギル所長が‘老論史観’によりわい曲された朝鮮後期史の事例として提示した資料を検討した結果はちょっと空しさすら覚えます。空しいというより何か他意があるのではないかという疑いを持つほどです。私がそのようなわい曲を心配する理由は、すでにそのような類の‘ねつ造’とわい曲が産んだ結果を植民史観で見てきたためです。政策も理念もなく権謀術数と陰謀で綴られた朝鮮後期史-これが植民史観が注入しようとしていた表象であったのですが、残念なことにそのような表象がイ・ドギル所長の文でも間違いなく再生産されています。イ所長の企図が論争の発端を開こうとしたという点で、一瞬一歩進んだように見えながらも朝鮮後期史の多様で躍動的な容貌を明らかにした学界の研究と問題意識より二歩、いや三,四歩遅れをとっているという気がするからです。
もちろんこの責任がイ所長個人にあるわけではありません。2009年韓国社会の浅はかな政治と責任意識のない学問水準の反映でしょう。こういう現実と資料の性格や用例も考慮しないまま李珥の十万養兵論を操作だと断定する軽薄なことは距離がそれほど遠くありません。
最後に、党色を離れて朝鮮時代を導いた学者,官僚,政治家らはそのように馬鹿にできるよな方々ではなかったことを思い出そうと思います。何よりも朝鮮人民たちがいんちきを容認しなかったためです。それで彼らが持った自負心と誇りという価値は絶対にねつ造とわい曲を基盤としては維持されることもできず、そもそも作りあげることもできないそのような種類のものなのです。ふと、私たちの軽薄な見識では当分の間は朝鮮文明の真髄には近付けないかもしれないという不吉な予感がします。誰か私の予感が違っていると慰労してくれたらと思います。
オ・ハンニョン/歴史学者・朝鮮時代史
原文:https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/367319.html 訳J.S